このところベトナムのハノイに行くことが度々ある。おもに雑誌の企画などで撮影に行くのだが、宿泊先は決まって湖にほど近い旧市街だ。おそらく何百年もの昔から街の中心であったに違いない、ホアンキエムという楕円形をさらに細長くしたような湖がある。周囲1キロメートルほどの湖畔には、巨木になってしまった木々がその湖を取り囲むように立ち並び、湖面にせり出すように大きく枝をのばして、濃い影を落としている。春には火焔樹の太い枝が、赤い花をつけたまま水の中に潜っているところもある。日が傾くころ、木々の影が水面に長くのびて、さざ波に揺れながら湖に映り込む赤らんだ空に溶け込んで見えなくなる。夕刻になると毎日のように大勢の市民が長い影を引き連れてそこにやって来る。老人や子ども、恋人たち、それに靴磨きや絵はがきを売る少年、ドル札をベトナムの通貨に両替してまわる少女たちとその母親、それに今となっては骨董品と言ってもいいような年代モノのカメラをぶら下げた写真師もいる。まだそう多くはない観光客を相手に商売をしているのだ。湖畔の賑わいは暮れてもなお、笑い声が絶えず、木々の枝に絡ませた電飾が点いたり消えたりしながら、暗い湖面を彩る。対岸に街灯が連なり並んでいることさえ僕には不思議でならない。あのときと同じ街にいる気がどうしてもしないのだ。
Essay
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少女のマジック
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田園の村、米の国
風に吹かれてうねる穂波が眼に眩しい。瑞々しい田園の風景は途切れることなく、北部の山裾から二千キロメートルも離れた南部のメコンデルタまでつづいている。南北をつなぐただ一本の鉄道の車窓からは、右側にも左側にもその青々とした稲穂がすぐそこに広がり、その稲穂の一粒一粒が見える気さえする。田植えをしているすぐ横で稲を刈っている人がいる。土を掘り起こして苗床を作っているのか、水牛を操りながら泥だらけの少年が手を休めて、僕がいる列車に手を振っていた。何と豊かなんだろう。年に二度も三度も米が穫れるという。稲穂さえ蒔けば、見ているそばから実るのではないかとさえ思えてしまうような光景だ。
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夏
夏が来れば思い出すのははるかな空や野の小道ではなく、水芭蕉でもない。土手の片隅であり畑のはずれの草むらでもある、なんともいいようのない場所に咲いていた 白ゆりの白い花をぼくは思い出す。その白ゆりとおなじ背丈の少年だった。日をいっぱいに浴びたままたたずみ、揺れるその白ゆりが見ていたのは、たしかにそこに在った野の小道だったにちがいない。土手の斜面のうえに青い空も見えていた。なんでだれもいないそんなところで咲いているの、と訊いてみたかった。遠くの河原ではしゃぐこどもの声も 蝉の鳴き声もしない静まりかえった野原に、午後の日が容赦なく降りそそいでいた。
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北上して
東北自動車道路を時速140キロで北上して行くと、1時間ほどで風景が一変する。大気そのものがちがって感じられ、宇都宮を過ぎたあたりにさしかかると、ぼくは決まって、東京からの冷房で冷えきった車内の空気を、追い出すように車の窓を全開にする。すると、湿った生暖かい空気が一気に吹き込み、乾いた肌をべとつかせた。
太平洋沿岸を北上する台風9号に追われて、いま走っていることに気がついた。熱帯から運ばれてきた南国の匂いなのか、それともそこここに生い茂る夏草の草いきれなのか、その密度ある匂い、夏の匂いに息をつまらせた。遠くの山々の背景に夏の空と雲が湧きあがっている。そこに強い日差しが当たっているにもかかわらず、突如としてワイパーもきかないほどの豪雨のなかに突入したり、数分もすれば、それがまるでウソだったかのように乾ききった路面に戻っている。車は走りつづけている。フロントガラス越しに、青々とした田畑が広がっている。もくもくと沸き上がる真っ白な入道雲とそのはるか上空に飛行機雲が一直線にのびて散りかけているのが見え、同時にバックミラーを覗くと黒々した雨雲が遠ざかって、もう秋なのかまだ夏の盛りなのかわからなくなる。車内に吹き込み渦巻いている風さえ夏のものとも秋のものとも感じられ、季節の変わり目のまさに最前線にいる気がした。3月に父が亡くなるまでのひと月とそれからの四十九日までの間、毎週のようにぼくは実家がある福島に往復していた。冬から春へ、そして夏へと移り行く季節を疾走する車から眺めた。
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東京、山手の夜
大宮駅を出ると、特急列車は一瞬加速するかに思えたが、ゆるいスピードのまま、車窓の両側に広がる住宅の屋根の瓦のひとつ一つが見えるほどの速度で都心に滑り込む。いつも胸が高ぶり緊張する瞬間だ。田端駅を通過するころだろうか、まもなく上野に到着するとのアナウンスが流れると、僕の緊張は一気に頂点に達する。動悸がして手のひらはきまって汗ばんだ。新幹線がまだ開通していない時代のことで、線路が上野駅の広小路口に面する広場で断ち切れる。まさに終着駅だった。
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10才の誕生日
手帳に〈6時〉と書いてあり、わざわざ丸印をつけているのに、他に何も書いていなかったから、誰との約束だったかどうしても思い出せなかった。その2、3日前から、心当たりのある知人に電話で聴いたり、仕事の約束だと迷惑をかけてしまうからと、主だった仕事先に訊ねたりしたが、ついにわからないままその日が来てしまった。名前とか場所とか、何か手がかりになるものを書いておくべきだった。その日になってもそのことが気になって、何度も手帳をめくるが、結局思い出せなかった。
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ナムディン-ベトナムの農村
自宅にいる間、いつもテレビを点けっぱなしにしてBGMのように見るともなく眺め聴いている。積極的にチャンネルを合わせて見るのはニュース番組ぐらいで、つぎつぎとチャンネルを変えながら同じニュースを繰り返し見ても飽きないのは、ドラマやバラエティー番組にはないナマのリアリティ、現実の断片に物語さえ感じるからだ。
ひとを感動させようと終始媚びへつらうテレビドラマの空虚もニュースの合間にのぞき見れば、筋書きも消えて切れ切れの断片となり、あってもなくてもいいものとして見ることもできる。そんなふうにテレビを眺め、番組と番組の間を泳ぎ回っていると、ときとして思いがけない番組に出会える。
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東京見物
田舎からはじめて上京したとき、眼に入るもの何もかもが新鮮で、東京の街が光り輝いていたのを今も忘れない。空はいつも青空だつたような気がする。池袋の夜も新宿歌舞伎町のコマ劇場の前の噴水もネオンライトに照らされて、それを眺める自分の身体も赤く青く染められ、融けて街そのものになっていったものだ。
アジアを旅することが多いためか、外国の友人といえばほとんどがアジアの人たちで、とくにタイの友人と交流がある。来日してくる友人には一応行きたいところを あらかじめ訊くようにしているが、皆が口をそろえて「デズニーランドに行きたい」というものだから、必ずつき合わされてしまう。
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ベトナム野菜
日がまだ屋根にもあたっていない早朝から、ハノイの街角は活気に満ちている。物売りの足音が足ばやに過ぎてゆくと、細く甲高い別の声が追いかけるようにやって来ては、軒下の茶屋でお茶をすすってる僕に、「いかがですか」と同じようにつぎつぎと声をかけてくる。天秤棒を肩に麺やご飯、コーヒーやお茶など、朝食そのものを担いで、注文があれば路地の隅に荷をおろし、麺をゆでたりお茶を入れたりしてくれる。ふと振り返ると僕が座ってお茶を飲んでいるところも店ではなく、カゴを担いできたお茶売りのお姉さんだった。生タマゴ、肉、米、砂糖や塩などの調味料、それにさまざまの野菜が濡れたまま目のまえを過ぎてゆく。
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私の鉄道の旅
インドシナの赤い大地を削り、その赤い土を溶かして流れるためか、河はいつも紅く染まっていた。その名も紅河〈ホン河〉と言う。そこに黒々とした鉄の橋が架かっていた。十数年前、僕はボロボロのソ連製の軍用車でその橋を渡ったときのことを今でも鮮明に憶えている。ハノイのノイバイ空港から水田の畦のような土手を、のろのろと40キロほどの道のりを、2時間近くかけてハノイ市内に向かっていた。むき出しの赤土が遠く山の裾までつづき、輪郭も朧気に淡い夕日が暮れかかる夕空ばかりか、乾いたその赤土の水田をいっそう赤く染めて霞のように包み込んでいた。農作業を終えた農夫たちが、泥だらけになりながらも悠々と自転車を漕ぎ、途切れることなくその沿道に列をなしていた。売り切ったのか空になった大きな竹かごを天秤棒で担ぐ女たちも、飛び跳ねるように家路を急いでいた。