Essay


  • 1999年の幸福論

    なぜかあの時の光景が忘れられない。トヨタの大衆車「ファミリア」がゆるいカーブを曲がりながら、真新しい団地の丘をあがっていった。白い建物と芝生の陰影がくっきりとしていて、眩しい。辺りには 午前中のものと思われる清々しい空気がそこかしこに漂い、立ち並ぶ同じ形の建物の上空には雲ひとつない青い空が広がっていた。初夏だった気がする。街路樹がまだ植えられていないはずなのに、季節を感じさせる木々がどこにも見あたらないのに、なぜかそう思い込んでいる。

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  • わが青春のヒーロー、力道山……1961年

    そこかしこに堆肥の甘い匂いが漂い、見わたせば、盆地の中の、骨みたいに白く立ち並ぶ桑畑に囲まれていた。母も生まれ、僕も生まれたタイ国の片田舎町のウドーンタニから、父に連れられて福島県の農村に移り住んだのは8歳の時だった。そこは父の実家だった。昭和17年に出征して行った父が20年もの間、音信不通だったため死んだものと思い、次男の正次が継いだ農家でもあった。
    1961年、僕はまだ〈トオイ〉と呼ばれていた。
    ウドーンタニの写真館を整理して、3年したら母と弟と妹を連れて戻るからと言い残して父はタイに帰り、それからの3年間をこの村の桑畑に囲まれた藁葺き屋根で暮らすことになった。桑の葉を喰って透明になってゆく蚕のように、堆肥の匂いの中で、ラジオから流れ出る吉永小百合の歌声が涙で濡れるのを聴きながら、意味もわからずに口ずさんでいるうちに、僕は〈トオイ〉から〈正人〉になり、日本人になってゆくような気がしていた。兄貴分でどこへ行くにも一緒に連れて行ってくれた実さんが、1円玉を握って「見せてくないしょ」と言って立ち寄った村の地主の家で、はじめて見たテレビに力道山が縦横無尽に立ち回る姿があった。金髪を振り乱し、額に噛みつくなど思いもよらない事をするブラッシーは、獣であり敵そのものだった。血だらけになった力道山がふらつき、もしかしたら噛み殺されるのではないかとさえ思ったものだ。しかし、リキが力を振り絞って伝家の宝刀空手チョップを振り下ろせば金髪の獣も羊に見えて、一発一発、日々鍛えあげた肉体に力がみなぎり、見ているだけで勇気づけられたものだ。

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  • 「上海」から「SHANGHAI」へ

    二十世紀初頭の西欧とその百年後のアジア近未来都市を思わせる摩天楼、〈過去(グォチー)〉と〈現在(シェンザイ)〉の間に湾曲した河が流れる。かつてのように船の汽笛が鳴り渡るそんな黄浦江は、上海の〈未来(ウェイライ)〉をも垣間見せてくれる。
    ダイナミックに変わりゆく街と変わらない暮らしが混然としていながら、何らその違和を感じさせない街、上海。
    〈過去〉と〈現在〉と〈未来〉 が交差するハイウェイをサンタナが疾走してゆく。時としてタイムマシーンのように、百年の時を越えて私たちを異次元へ連れてゆく。街路樹のプラタナスのトンネルがその入り口かもしれない。

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  • 読書日録

    (上)

    一九八三年の冬、僕ははじめてベトナムのハノイ市を訪れた。もう一八年も前のことになってしまったが、それは思いもよらない一通の手紙を受け取っての、想像すらしていなかった社会主義国への旅となったのだった。母を連れてのまだ見ぬ故郷への旅とも言える。

    ベトナム戦争が終わって八年目の冷戦のさなかで、今のように渡航が自由にできる時代ではなかった。僕はその手紙を手に代々木にあるベトナム大使館に相談に行った。そして、差出人である母方の家族に会うための渡航許可の申請をした。母はベトナム人で、その二十年前に別れ、戦争で音信不通になったままになっている姉や妹の無事を知って、会いに行くことになったのだった。ビザがおりるまで一年近くかかった。同封された小さな写真の豆つぶのような小さな面々に朧気な記憶が蘇ってくる。「いらっしゃるなら、テト(旧正月)に……」とのことだったので、一月にビザを受けとって慌てて出かけたのだった。

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  • 文庫化にあたって

    (上)

    そろそろ4年にもなるのかと、奥付に記されたままになっている発行日と、そこから刻みはじめた〈時〉の速度に驚きながら、いくつかのエッセイと何冊かの小説や写真集の書評を書き、そう短くも長くもない小説を2作書いて、いま、3作目を書き終えようとしている。あわせるとこの間に600枚ほどの原稿を書いてきたことになる。書きながら、カチ、カチと音をたてて刻みつづける〈時〉の足音に追い越されるのを感じて、追いつこうとしてもいつも振り切られてしまう。置き去りにされてその〈時〉の行方を見失うと、きまってぼくの前に一本の樹が立ちあらわれる。その樹が見おろす庭と、路地をつたって出てゆく見なれた街路がすぐそこに見えて、ふっとそこへ連れもどされてゆく。そこへ引きもどされて、ぼくはもうひとつの〈時〉を垣間見ながら、往きつ戻りつしていた。

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  • 船の旅

    月が眼下にぽっかりと浮かんでいた。果たしてそれが月なのかと思う間もなく、その明かりは何かの蔭に滑り込むようにして消え、眺めていた下界は瞬時に暗闇になった。それまで見えていたものが見あたらないと、どことなく不安になり茫漠としたその暗がりに眼を凝らした。午後六時にバンコクを飛び立ったタイ航空、TG305便に僕は乗っていた。夕日を追いかけるように西の空を目指して飛び立ったが、追いつけないままどっぷりと暮れた ヤンゴンの暗がりに着陸しようとしていた。 額を押しつけ、丸窓に映る機内の照明を両の手や腕で遮りながら、月をさがした。下に見えかくれしているのが月の明かりならば、頭上には輝いている月そのものがあるはずだと思い、見上げるものの窓の縁がじゃまをしてその姿を見ることができなかった。地上の暗闇に街明かりか家々の小さな明かりでもないかと探し見るが、ほんのりと暮れ残った空の赤みが、漆黒の下界のところどころに滲んでいるだけだった。

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  • 深瀬昌久『鴉』

    もう14年前のことになってしまったが、深瀬さんの「鴉」の写真集をつくることになって、 その編集の場に立ち会うことができたのを幸運に思っている。その数年前から僕は深瀬さんの仕事を手伝っていて、深瀬さんが「鴉」を撮り始めるごく初期のころからその一部終始を見ていた。闇夜に舞う鴉をいくら高温の現像液に浸して増感してみても、その姿は暗いセーフライトのもとでは何も見えなかった。 お湯のような液に30分浸けても、画像は現れない。とにかく微かな気配が感じられるまで現像するほかなかった。何も写っていないフィルムを現像しているようなものだ。ところが、できあがって明るい部屋でそれを見ると、木の枝に夥しい数の鴉がとまり、眼だけを光らせていた。真っ暗な夜空に黒い鴉、風で揺れているのかそれとも深瀬さんが握るカメラがブレたのか、わずかに揺れる木の枝のシルエット、プリントして見るまでもなかった。ネガを覗き込み、ふたりして感動したものだった。

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  • 書評:河野多恵子著『小説の秘密をめぐる十二章』

    作家が小説という文学作品の成り立ちについて書いている。「小説の秘密をめぐる一二章」という標題にもかかわらず、 ぼくは〈小説〉を〈写真〉に置き換えて読んでしまった。どこを読んでもなんの違和も感じられない。それどころか、 創作の事始めからその方法や構造にいたるすべての章において、〈小説〉あるいは〈文章〉を〈写真〉に置き換えることで、そのまま「写真の秘密をめぐる一二章」になってしまう。

    本著の初出が「文学界」での連載で、題名が「現代文学創作心得」であることを考えると小説家志望の若者に向けて書かれたものと思われる。しかし写真との対比を意識したとたん「現代写真創作心得」として写真家志望の若者に写真のリアリティーについて語りかけているように思えるのだ。

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  • ミャンマー紀行

    月が眼下にぽっかりと浮かんでいた。果たしてそれが月なのかと思う間もなく、その明かりは何かの蔭に滑り込むようにして消え、眺めていた下界は瞬時に暗闇になった。それまで見えていたものが見あたらないと、どことなく不安になり茫漠としたその暗がりに眼を凝らした。午後六時にバンコクを飛び立ったタイ航空、TG305便に僕は乗っていた。夕日を追いかけるように西の空を目指して飛び立ったが、追いつけないままどっぷりと暮れた ヤンゴンの暗がりに着陸しようとしていた。 額を押しつけ、丸窓に映る機内の照明を両の手や腕で遮りながら、月をさがした。下に見えかくれしているのが月の明かりならば、頭上には輝いている月そのものがあるはずだと思い、見上げるものの窓の縁がじゃまをしてその姿を見ることができなかった。地上の暗闇に街明かりか家々の小さな明かりでもないかと探し見るが、ほんのりと暮れ残った空の赤みが、漆黒の下界のところどころに滲んでいるだけだった。

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  • 新・風の旅~阿武急に乗って

    すぐそこなのに、一度も行ったことがなかったことに自分でも驚いている。20歳に上京するまで、僕は福島県の北の端、福島盆地の奥まったところにある小さな町で育った。阿武隈川が盆地の中央を北上するように流れ、広い河川敷が広いまま、僕らが住む梁川町をかすめて阿武隈山地の山あいに流れ込んでゆく。その悠々とした流れは、湾曲しながら町はずれのどこかで速度を速めて、まるで山を駆け登るようにして突如、竹藪にその姿を消す。

    川が山あいに消えてどこへ流れてゆくのだろうかと、僕はいつも気になっていた。 しかし、流れてゆくさきが、五十沢、山舟生、白根と、地名からしても子供心に山深いところのように思えて町をはずれてその行方を確かめに行こう、などと言い出すものはいなかった。 鮭のぬか漬けが名産になっているから、山の陰に海があると言うものがいた。そして、その昔この盆地一帯が生糸の産地であったからそれを輸出するために船でこの阿武隈川を下ったという話を聞いたこともある。だけど海の気配などどこにも感じられない。盆地を取り囲む山並みを見わたし、その盆地のなかで暮らすうちに、いつかしらそのことさえ忘れてしまっていた。

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