私の鉄道の旅

Essay

インドシナの赤い大地を削り、その赤い土を溶かして流れるためか、河はいつも紅く染まっていた。その名も紅河〈ホン河〉と言う。そこに黒々とした鉄の橋が架かっていた。十数年前、僕はボロボロのソ連製の軍用車でその橋を渡ったときのことを今でも鮮明に憶えている。ハノイのノイバイ空港から水田の畦のような土手を、のろのろと40キロほどの道のりを、2時間近くかけてハノイ市内に向かっていた。むき出しの赤土が遠く山の裾までつづき、輪郭も朧気に淡い夕日が暮れかかる夕空ばかりか、乾いたその赤土の水田をいっそう赤く染めて霞のように包み込んでいた。農作業を終えた農夫たちが、泥だらけになりながらも悠々と自転車を漕ぎ、途切れることなくその沿道に列をなしていた。売り切ったのか空になった大きな竹かごを天秤棒で担ぐ女たちも、飛び跳ねるように家路を急いでいた。

車窓からは、消えてはつぎつぎと立ち現れる走馬燈のようにぼんやりと流れ去ったかに見えたが、眼を凝らせば、その道ばたにさえ人々の暮らしが手にとるようにわかる気がした。疎らながら人の波が紅河〈ホン河〉を越えて、ハノイの街から零れてゆっくりと水田のなかに吸いとられて行くようだった。

緩い坂道をのぼると、それまでのゆったりとした田園風景が嘘のように目の前に立ちはだかった。錆びた鉄の橋に、夥しい数の人や自転車、オートバイなどが混然と入り乱れて、行き交うことさえままならない。そこを車で分け入って通ろうとしていたのだ。1キロメートルほどある橋の向こうは霞んで見えなかった。「お客さん、この橋は世界一長い橋なんだ」と運転手が言った。どういうことだろうと首を傾げていると、「たった1キロなのに2時間かかることがあるんだ、これでも今日はそれほどでもないよ」そう言って笑うのだった。

そのありさまを見て、僕は言い知れぬ恐怖を感じた。時間ではない。そこに立つ人間の重量だ。橋のなかほどにさしかかったとき、心なしか鉄橋そのものが揺れていて、崩壊するのではないかとひとり怖れたのだった。「大丈夫ですよお客さん、これはフランスが造った橋で列車も通るんだ、北爆のときアメリカがずいぶん爆撃したけど落とせなかった、みんな土手に座って見てたもんだよ」と言ってまた笑うのだった。

よく見ると道の真ん中に線路が敷かれてあった。信じがたいことだったが、列車が通るときは通行止めにして鉄道の橋に早変わりするらしい。100年ほど前に建造されたそのロンビエン橋はハノイの人々の誇りであり、戦時の命綱でもあった。当時から北部の中国国境や西部の要衝であるハイフォン港に通じる唯一の橋だった。それから数年してハノイを再訪したときには、新たな橋ができていてロンビエン橋は鉄道専用になっていた。両側が歩道になっていたが自転車やオートバイもゆっくりながら通ることもできた。

ハノイ駅を朝の6時すぎに発つ列車に乗って、僕はハイフォン向かった。駅を出るとすぐに踏切の警報機が鳴りだし、民家の軒をすり抜けるようにゆっくりと右のほうにカーブして行った。人が歩くほどの速さで、踏切にさしかかると飛び降りる者もいれば乗って来る者もいた。開け放された民家の窓を覗き見ると、朝の食事の支度をする人やテーブルを囲んですでに食べはじめている家族、洗濯で汗を流す人、水浴びする人、まだ寝ている人もいた。

列車の速さが人の生活のリズムにぴたりと合っていて、コーヒーを飲みながら車窓から眺めていると、まるで自分もそこの住人のようで列車に乗っている気がしなかった。「キエムおじさん、おはよう」とつい気安く挨拶しそうになるのだった。僕は列車があの鉄橋を渡ることをすっかり忘れていた。見通しのきかない軒下から視界が開けたとたん、忽然と黒い橋の尖端が眼に飛び込んできた。

いつかその橋をびくびく渡ったことを思い出し、鉄の塊であるこの列車がほんとうにそこを渡れるのかと考えただけで、冷や汗がたらっと流れ落ちた。速度をさらに落として、列車は鉄橋を渡りだした。それはまるで、橋の強度を確かめながら動いているようなものだった。列車は自転車を引く人々につぎつぎと追い越され、なかには橋に降りて手すりにもたれて煙草を吸う乗客さえいた。それ以来、何度かこのフランス製の頑強な鉄橋が崩壊し、列車もろとも紅い河に砕け散る夢を見た。

(初出:『JR-EAST』)