10才の誕生日

Essay

手帳に〈6時〉と書いてあり、わざわざ丸印をつけているのに、他に何も書いていなかったから、誰との約束だったかどうしても思い出せなかった。その2、3日前から、心当たりのある知人に電話で聴いたり、仕事の約束だと迷惑をかけてしまうからと、主だった仕事先に訊ねたりしたが、ついにわからないままその日が来てしまった。名前とか場所とか、何か手がかりになるものを書いておくべきだった。その日になってもそのことが気になって、何度も手帳をめくるが、結局思い出せなかった。

午後になってそれとは何の関係もない銀行から電話があった。住所変更の手続きについての問い合わせだった。娘名義の口座が、かつて住んでいた住所のままになっていたため、以前から手続きの必要があったのだった。電話の向こうで、係りの女性が身元確認のための必要事項の確認をするためにつぎつぎと質問してきた。そして、生年月日は? と訊かれて応えたところ、「今日ですね、お誕生日は」と言うのだった。咄嗟に、〈6時〉は娘との食事の約束だったことに気づき、ついその女性に、「ありがとうございました、気がついてくれて、実は娘と誕生日にステーキを食べることになっていたんですけど、まったく忘れていて、良かった、ほんとうにありがとう」と、その人には何の関係もないことまで言ってしまったのだった。慌ててプレゼントを買いにでかけ、その足で、6時に待ち合わせしている駅に向かった。10才になる娘が誕生日にステーキを食べに行こう、と言ったとき、妙なことを言うなあ、と思った。〈ステーキ〉か、懐かしいなあ、と思いながらその言葉の響きで、金がなくて食べたくても食べられなかった学生時代に、連れ戻される気がした。
食べ盛りに食べられなかった記憶が甦る。よれよれの札を握って、何度か友人とステーキハウスに行って、気合いを入れて〈ミディアムレア〉と、言ったものだ。しかし、社会人になって飽きるほど食べたし、肉よりやっぱり魚や野菜がいいと思うようになってからは、もう何年もステーキをわざわざ食べに行くことはなかった。〈ビフテキ〉と並んで、僕にはすでに死語に思える。焼き肉のほうがはるかにいい。

その〈ステーキ〉を食べに行こうと言うのだ。どうして〈ステーキ〉なの? と訊くと、学校で話題になっているらしく、見たことも食べたこともないのがその理由だったが、そのわりにはどうやって食べるかよく知っていた。

テーブルに座って姿勢をよくして、ナイフとフォークでこうするのよ、お肉を切るとき、お皿にぶつけてカチカチ音をたてちゃいけないんだって、と言いバイキングになっているサラダバーには果物やデザートが山のようにあると、まるで行ったことがあるように言うのだった。

僕と娘はサーロインステーキを注文し、家内はフライドチキンにした。横に座る娘の顔を覗くと何やら神妙な顔をしている。どうしちゃったの? と、まじまじと見ると、誕生日のせいかいつになく大人びて見えた。そして、お父さん、じろじろ見るのは失礼よ、と言うのだ。

焼き上がるまでの間、娘はサラダバーのあるカウンターを見回り、事細かにチェックしては報告に戻って来る。スープとってきてくれないかなあと言えば、スープはコンソメにクリームシチュー、それに中華、どれになさいますか? とウェトレスみたいに言った。サラダもほしいと言うと、しばらくしてきれいに盛りつけた皿を持って戻って来た。背筋を伸ばしすました顔をして、娘はナイフとフォークで肉を切っていた。一見、慣れた手さばきではあったが、なかなか切れないでいた。

僕と家内がほぼ食べ終わるころになっても、一生懸命に切っているのだった。手伝おうかと言ったが、どうしても自分でやりたいのか意地になっているのか、顔を真っ赤にしてナイフを擦り付けていたが一向に切れない。そのうちに、ガチャンと大きな音がして水の入ったグラスが倒れ、肉の塊が皿から飛び出した。向かい側に座る家内は顔を覆うばかりだった。グラスが割れる音で他の客が振り向き、いたたまれなくなったのか、娘はトイレに駆け込んで行った。せっかくの誕生日なのに台無しにしてしまったようで気の毒だった。

しばらくして、目を真っ赤にはらして、家内に手を引かれて戻って来た。まだあどけなさが残る、いままでの娘に戻っていた。背伸びをしてみたい年頃かもしれない。レストランらしいところで食事してみたいだけだったにちがいない。気を取り戻したのか、デザートはいかがですか、とまたウェイトレスの真似をした。プリンにゼリー、さまざまなケーキが整然と並べられてあった。アイスクリームも3種類あって自分でコーンに注入する。色もカラフルだ。デザートがこんなにも種類があるかと、娘の後について行って、そのお菓子のことをあれこれ訊くと、よくこんなことまで知っているものだと関心させられた。

どうやら〈ステーキ〉よりも、自由に歩き回れてバイキングの楽しみがうれしいらしい。自分の好きなものをかってにとり、飾り付けるその作業そのものがいいようだ。カップに上手に盛りつけ、飾りたてては僕や家内に持って来る。店の従業員のようだった。今にも店内を歩き回り注文でもとって来そうだった。いくら食べてもいいんだって、と言って口のまわりをクリームやチョコレートで汚した。もう10才だね、大きくなったものだ、と家内と話をして間にも成長している。ねえ、おとなになったら何になるの? と家内が訊いた。もちろんウェイトレスよ、と自慢げに娘が言ったとき、家内が腹を抱えて笑い、僕は涙が出そうになった。

(初出:『すばる』)