新・風の旅~阿武急に乗って

Essay

すぐそこなのに、一度も行ったことがなかったことに自分でも驚いている。20歳に上京するまで、僕は福島県の北の端、福島盆地の奥まったところにある小さな町で育った。阿武隈川が盆地の中央を北上するように流れ、広い河川敷が広いまま、僕らが住む梁川町をかすめて阿武隈山地の山あいに流れ込んでゆく。その悠々とした流れは、湾曲しながら町はずれのどこかで速度を速めて、まるで山を駆け登るようにして突如、竹藪にその姿を消す。

川が山あいに消えてどこへ流れてゆくのだろうかと、僕はいつも気になっていた。 しかし、流れてゆくさきが、五十沢、山舟生、白根と、地名からしても子供心に山深いところのように思えて町をはずれてその行方を確かめに行こう、などと言い出すものはいなかった。 鮭のぬか漬けが名産になっているから、山の陰に海があると言うものがいた。そして、その昔この盆地一帯が生糸の産地であったからそれを輸出するために船でこの阿武隈川を下ったという話を聞いたこともある。だけど海の気配などどこにも感じられない。盆地を取り囲む山並みを見わたし、その盆地のなかで暮らすうちに、いつかしらそのことさえ忘れてしまっていた。

東北本線が建設させたとき、福島からこの梁川町を経由して仙台方面へ抜ける予定だった。 それを養蚕に影響がでるのではと町民が反対した。だから福島からはバスの路線しかなく、その梁川町が終点であった。そして、僕の家の前がその終着のバス停だったこともあって、そこから人々は出かけそこへ戻ってくるのを見て、盆地のはずれの一等どんづまりにいると思い込んでいたのだった。ところが、当時町のだれもが忘れていたにちがいないが、町の北側に線路が引かれたままになっていたのだ。城跡の高台にある、学校のグランドから確かに一筋の鉄路が雑草に埋もれ、 見え隠れしながら一直線に伸びていた。そして阿武隈川が消える竹藪のほうへつづいていた。宮城県の丸森町に抜けるから、確か丸森線と皆が言っていた気がする。 使われないまま何十年も経ち、いま、〈阿武急〉の名で親しまれている。

先日、福島の美術館で展覧会をする機会があって、ワークショップをしてくれないかと言われ、すぐに思ったのは「写真への旅・〈阿武急〉に乗って……」というものだった。二十数名の受講生を引き連れて、福島駅を発ち阿武隈川に寄り添ったり離れたりしながら 盆地のなかを北上した。わが町の北のはずれの竹藪の先の先まで行けるのかと思うだけで、はやる気を抑えきれないでいた。やがて梁川駅を過ぎるころ、見覚えのある町並みが車窓をかすめると、あっと言う間にあの竹藪のなかへ引きずり込まれ、いつも左手に見えていた河面も視界から消えた。そしていくつかのトンネルをくぐると、二両つなぎの列車は視界のひらけた山の中腹の駅に止まった。

わずか十数分のことだ。切り立った山に挟まれるように、 眼下のはるか下に河面が見えた。 川下りの船に乗るため、曲がりくねった小道を降りてゆくと、冷たい川風が吹き上げていて、辺りには山しか見あたらないのに、心なしか潮の香りがした。 広い河川敷を伴ったあの阿武隈川の面影はどこにもない。狭まった川幅で急流になり、どこかの別の川にいる気さえした。わが町のすぐ背後がこんな深い山だったことに驚いていると、船頭の声がした。「見えますか?あの仕掛けはウナギで、その向こうは鮭の網、海はすぐそこですよ」
いつの間にか、宮城県になっていた。そして、再び見覚えのある姿を見せて、広い河川敷の、その真ん中を流れて行った。

(初出:『JR-EAST』2001年1月号)