バンコク

Essay

チャオプラヤ河へ注ぎ込む、幾筋もの水路のどこかで見た気がする。そのときまだ小学の2年生だったから、ほんとうのところその看板の大きさがどのくらいのものだったかわからないが、とにかく見たことがないほどの巨大なものだった。10メートル四方とか10数メートル四方の看板が水路のほとりに立っていた。ひとの記憶というものは、曖昧でたよりのないものであるが、ある事柄だけ不思議なくらいに鮮明に憶えていることがある。40年もまえの古い話になるが、父に連れられて僕はバンコクに来た。日本から来たのではなく、父の故国である日本にゆくために、生まれ育ったタイの東北地方からバンコクに来たのだった。夜行列車で夜明け前のバンコクのどこかの駅に着いて、サムロと言われている三輪車のタクシーに乗り込んだ。走り出してほどなく、湾曲した水路に沿った道の向こうに、白い壁のようなものが朝日を浴びて金色に輝いていた。窓のない吹きさらしの車内から見上げると、流れ去る何かの樹の、枝ぶりがそろった並木で見えかくれしながら輝度を増して、その全体像が現れたときには午後のような眩い日をうけて青い空を背にそびえていた。白地の中央に真っ赤な字で〈味の素〉と、なにかの模様のように描いてあった。それを読んで理解することができない僕に父は指をさして、「日本だ」と言った気がする。はじめて見る日本だ。あのとき、確かに僕が見たのはバンコクにちがいないが、もしかしたら、それは数日後に降り立った東京だったかと思うこともある。

白地に赤いひし形が三つ積み上がった〈三菱〉の看板も目にした。のちに、〈日の丸〉を見たとき、〈味の素〉や〈三菱〉の看板に似ていると思ったものだ。20年後に成人して、あのころのバンコクの記憶をこの目で確かめたくて、僕はあの朝降り立った駅の前に来ていた。そこは上野のような終着駅で、ホランポーン中央駅だった。記憶を辿り三輪車に乗ってチャオプラヤ河をめざした。立ち並ぶ合歓の並木が、大きく枝を張り出していた。あの赤い漢字の看板はどこにも見あたらない。そして、水路を右に眺めたり左に見たりしながらゆくと、突如、視界が開ける。対岸には屏風のように巨大看板が河面を見下ろしていた。〈ソニー〉〈コニカ〉〈パナソニック〉、どれも青い文字だ。まるで看板を切り抜いて透けて見える 向こうの青い空そのものの色だ。

1980年代、バンコクの看板は〈赤の時代〉から〈青の時代〉になっていたのだ。〈味の素〉はタイ全土を制覇して、すでに戦後まもないベトナムや中国まで浸透していて、もうその姿は見うけられない。以来、あらゆる機会をとらえて僕はバンコクを行き来してきた。バンコクを見れば、日本のことや世界のこちら側の半分がわかる気がする。たとえば、歓楽街のネオンが点いたり消えたりしている。 その明滅のはざまで、光は青っぽいアルファベットから 赤っぽいひらがな混じりの漢字に変わり、そのあとをなんとなく黄色い韓国語や 中国語が夜の街を占めた。いつのころかアラビア語が混ざり込んできて、占領してしまいそうになったこともあったが、それはすぐに消えた。

街を見渡すと、中国系、インド系、マレー系、それに土俗的なタイ族に混じって、日本人や韓国人の顔が散りばめられたように行き交っている。どこかの国の白人も歩いている。アジアの西と東のあいだで、来るものを拒むことなくあらゆる文化をバンコクは 吸収しながら目まぐるしく変化してきた。西のものを東へ手渡し、東のものを西へパスしている。街を掘り起こせば、インドシナの赤い土が散らばる。その湿った赤い大地が乾くさまを僕はひとり見ている。

(初出:読売新聞夕刊「地球の顔21」)