Essay


  • 「上海」から「SHANGHAI」へ

    二十世紀初頭の西欧とその百年後のアジア近未来都市を思わせる摩天楼、〈過去(グォチー)〉と〈現在(シェンザイ)〉の間に湾曲した河が流れる。かつてのように船の汽笛が鳴り渡るそんな黄浦江は、上海の〈未来(ウェイライ)〉をも垣間見せてくれる。
    ダイナミックに変わりゆく街と変わらない暮らしが混然としていながら、何らその違和を感じさせない街、上海。
    〈過去〉と〈現在〉と〈未来〉 が交差するハイウェイをサンタナが疾走してゆく。時としてタイムマシーンのように、百年の時を越えて私たちを異次元へ連れてゆく。街路樹のプラタナスのトンネルがその入り口かもしれない。


  • 読書日録

    (上)

    一九八三年の冬、僕ははじめてベトナムのハノイ市を訪れた。もう一八年も前のことになってしまったが、それは思いもよらない一通の手紙を受け取っての、想像すらしていなかった社会主義国への旅となったのだった。母を連れてのまだ見ぬ故郷への旅とも言える。

    ベトナム戦争が終わって八年目の冷戦のさなかで、今のように渡航が自由にできる時代ではなかった。僕はその手紙を手に代々木にあるベトナム大使館に相談に行った。そして、差出人である母方の家族に会うための渡航許可の申請をした。母はベトナム人で、その二十年前に別れ、戦争で音信不通になったままになっている姉や妹の無事を知って、会いに行くことになったのだった。ビザがおりるまで一年近くかかった。同封された小さな写真の豆つぶのような小さな面々に朧気な記憶が蘇ってくる。「いらっしゃるなら、テト(旧正月)に……」とのことだったので、一月にビザを受けとって慌てて出かけたのだった。


  • 文庫化にあたって

    (上)

    そろそろ4年にもなるのかと、奥付に記されたままになっている発行日と、そこから刻みはじめた〈時〉の速度に驚きながら、いくつかのエッセイと何冊かの小説や写真集の書評を書き、そう短くも長くもない小説を2作書いて、いま、3作目を書き終えようとしている。あわせるとこの間に600枚ほどの原稿を書いてきたことになる。書きながら、カチ、カチと音をたてて刻みつづける〈時〉の足音に追い越されるのを感じて、追いつこうとしてもいつも振り切られてしまう。置き去りにされてその〈時〉の行方を見失うと、きまってぼくの前に一本の樹が立ちあらわれる。その樹が見おろす庭と、路地をつたって出てゆく見なれた街路がすぐそこに見えて、ふっとそこへ連れもどされてゆく。そこへ引きもどされて、ぼくはもうひとつの〈時〉を垣間見ながら、往きつ戻りつしていた。


  • 船の旅

    月が眼下にぽっかりと浮かんでいた。果たしてそれが月なのかと思う間もなく、その明かりは何かの蔭に滑り込むようにして消え、眺めていた下界は瞬時に暗闇になった。それまで見えていたものが見あたらないと、どことなく不安になり茫漠としたその暗がりに眼を凝らした。午後六時にバンコクを飛び立ったタイ航空、TG305便に僕は乗っていた。夕日を追いかけるように西の空を目指して飛び立ったが、追いつけないままどっぷりと暮れた ヤンゴンの暗がりに着陸しようとしていた。 額を押しつけ、丸窓に映る機内の照明を両の手や腕で遮りながら、月をさがした。下に見えかくれしているのが月の明かりならば、頭上には輝いている月そのものがあるはずだと思い、見上げるものの窓の縁がじゃまをしてその姿を見ることができなかった。地上の暗闇に街明かりか家々の小さな明かりでもないかと探し見るが、ほんのりと暮れ残った空の赤みが、漆黒の下界のところどころに滲んでいるだけだった。


  • 深瀬昌久『鴉』

    もう14年前のことになってしまったが、深瀬さんの「鴉」の写真集をつくることになって、 その編集の場に立ち会うことができたのを幸運に思っている。その数年前から僕は深瀬さんの仕事を手伝っていて、深瀬さんが「鴉」を撮り始めるごく初期のころからその一部終始を見ていた。闇夜に舞う鴉をいくら高温の現像液に浸して増感してみても、その姿は暗いセーフライトのもとでは何も見えなかった。 お湯のような液に30分浸けても、画像は現れない。とにかく微かな気配が感じられるまで現像するほかなかった。何も写っていないフィルムを現像しているようなものだ。ところが、できあがって明るい部屋でそれを見ると、木の枝に夥しい数の鴉がとまり、眼だけを光らせていた。真っ暗な夜空に黒い鴉、風で揺れているのかそれとも深瀬さんが握るカメラがブレたのか、わずかに揺れる木の枝のシルエット、プリントして見るまでもなかった。ネガを覗き込み、ふたりして感動したものだった。


  • 書評:河野多恵子著『小説の秘密をめぐる十二章』

    作家が小説という文学作品の成り立ちについて書いている。「小説の秘密をめぐる一二章」という標題にもかかわらず、 ぼくは〈小説〉を〈写真〉に置き換えて読んでしまった。どこを読んでもなんの違和も感じられない。それどころか、 創作の事始めからその方法や構造にいたるすべての章において、〈小説〉あるいは〈文章〉を〈写真〉に置き換えることで、そのまま「写真の秘密をめぐる一二章」になってしまう。

    本著の初出が「文学界」での連載で、題名が「現代文学創作心得」であることを考えると小説家志望の若者に向けて書かれたものと思われる。しかし写真との対比を意識したとたん「現代写真創作心得」として写真家志望の若者に写真のリアリティーについて語りかけているように思えるのだ。


  • ミャンマー紀行

    月が眼下にぽっかりと浮かんでいた。果たしてそれが月なのかと思う間もなく、その明かりは何かの蔭に滑り込むようにして消え、眺めていた下界は瞬時に暗闇になった。それまで見えていたものが見あたらないと、どことなく不安になり茫漠としたその暗がりに眼を凝らした。午後六時にバンコクを飛び立ったタイ航空、TG305便に僕は乗っていた。夕日を追いかけるように西の空を目指して飛び立ったが、追いつけないままどっぷりと暮れた ヤンゴンの暗がりに着陸しようとしていた。 額を押しつけ、丸窓に映る機内の照明を両の手や腕で遮りながら、月をさがした。下に見えかくれしているのが月の明かりならば、頭上には輝いている月そのものがあるはずだと思い、見上げるものの窓の縁がじゃまをしてその姿を見ることができなかった。地上の暗闇に街明かりか家々の小さな明かりでもないかと探し見るが、ほんのりと暮れ残った空の赤みが、漆黒の下界のところどころに滲んでいるだけだった。


  • 新・風の旅~阿武急に乗って

    すぐそこなのに、一度も行ったことがなかったことに自分でも驚いている。20歳に上京するまで、僕は福島県の北の端、福島盆地の奥まったところにある小さな町で育った。阿武隈川が盆地の中央を北上するように流れ、広い河川敷が広いまま、僕らが住む梁川町をかすめて阿武隈山地の山あいに流れ込んでゆく。その悠々とした流れは、湾曲しながら町はずれのどこかで速度を速めて、まるで山を駆け登るようにして突如、竹藪にその姿を消す。

    川が山あいに消えてどこへ流れてゆくのだろうかと、僕はいつも気になっていた。 しかし、流れてゆくさきが、五十沢、山舟生、白根と、地名からしても子供心に山深いところのように思えて町をはずれてその行方を確かめに行こう、などと言い出すものはいなかった。 鮭のぬか漬けが名産になっているから、山の陰に海があると言うものがいた。そして、その昔この盆地一帯が生糸の産地であったからそれを輸出するために船でこの阿武隈川を下ったという話を聞いたこともある。だけど海の気配などどこにも感じられない。盆地を取り囲む山並みを見わたし、その盆地のなかで暮らすうちに、いつかしらそのことさえ忘れてしまっていた。


  • 書評:マイケル・オンダーチェ著『アニルの亡霊』(新潮社刊)

    前半のかなりの部分が寸断されたような物語なので、ストーリーに沿ってつづられているのか、いないのか、わからない不安をかかえたまま夜の暗がりへ連れ込まれてゆく。あるときはその湿った夜の森の古代遺跡の遺構から、またはコロンボの埠頭に係留された船の船倉の暗がりから、登場人物が立ち現れては影を潜め、目まぐるしく入れ代わる。ときには山の石窟や菩提樹の大木の葉陰に姿を見せては消える。そこかしこに、ひたひたと忍び寄る暗闇と 濃密な湿度を感じないではいられない。まるで暗く湿った、むせ返るような部屋で投影された写真のスライドを見ているようだ。カチャ、カチャと音を立てながら写真が入れかわるように場面が変わり、時代が変わる。行きつ戻りつしながら変化しつづける。


  • バンコク

    チャオプラヤ河へ注ぎ込む、幾筋もの水路のどこかで見た気がする。そのときまだ小学の2年生だったから、ほんとうのところその看板の大きさがどのくらいのものだったかわからないが、とにかく見たことがないほどの巨大なものだった。10メートル四方とか10数メートル四方の看板が水路のほとりに立っていた。ひとの記憶というものは、曖昧でたよりのないものであるが、ある事柄だけ不思議なくらいに鮮明に憶えていることがある。40年もまえの古い話になるが、父に連れられて僕はバンコクに来た。日本から来たのではなく、父の故国である日本にゆくために、生まれ育ったタイの東北地方からバンコクに来たのだった。夜行列車で夜明け前のバンコクのどこかの駅に着いて、サムロと言われている三輪車のタクシーに乗り込んだ。走り出してほどなく、湾曲した水路に沿った道の向こうに、白い壁のようなものが朝日を浴びて金色に輝いていた。窓のない吹きさらしの車内から見上げると、流れ去る何かの樹の、枝ぶりがそろった並木で見えかくれしながら輝度を増して、その全体像が現れたときには午後のような眩い日をうけて青い空を背にそびえていた。白地の中央に真っ赤な字で〈味の素〉と、なにかの模様のように描いてあった。それを読んで理解することができない僕に父は指をさして、「日本だ」と言った気がする。はじめて見る日本だ。あのとき、確かに僕が見たのはバンコクにちがいないが、もしかしたら、それは数日後に降り立った東京だったかと思うこともある。


  • 東北タイの風景

    バンコクのホランポーン中央駅は、どことなく上野駅に似ている。高いドームの屋根が駅のロビーを覆い、広い待合い室はいつも、大きな荷物を抱えた乗客でごった返している。そして東北本線のように、南下してきた線路がそのロビーで途絶え、列車が到着するたびに、日に焼けた東北地方からの乗客がそのホームに降り立つ。するとバンコクとはちがうイサーン(タイ東北地方)の言葉が ドームに響きわたり、動く群衆とともに渦を巻きながら街へ流れ出てゆく。イサーンの人々が通り過ぎた後、構内の床のそこかしこが赤く染まった。ほんのりと赤らんだ床を歩き、客車が連なるホームに近づくにつれて滑って歩きにくくなるほど、辺りは赤い土で覆われている。客車の車体を撫でると、細かな赤い粒子が汗ばんだ指に引っ付いた。車体全体が赤い土をかぶっている。それは、季節はずれに屋根に雪を乗せて上野駅に滑り込む東北本線のようだ。


  • 写真への旅……バンコク、ハノイ、福島、東京

    記憶の最初のはじまりがどの場面からはじまったのか、僕は僕なりにはっきりと憶えている。間違いなく、あの目がくらむほどの、強い日差しが降り注ぐ午後の通りをぼんやりと眺めていた。行き交う人影さえなく、街は死んだようにただ日に晒されていた。そんな時間がとまってしまったような光景を、僕はたった一人で眺めていた気がする。温かいミルクが入った、ガラスのほ乳ビンをくわえながら、それを両手で抱えていた。飲み終えるまで、そのほ乳ビンをずっと持っていられなくて、休み休み手を離すと、はだけた胸に人肌より幾分熱く感じられるビンが触れて、呆然と午後の街を眺めながらふと我に返ったものだった。ほ乳ビンのガラス越しに、通りの眩いばかりの午後が白いミルクのなかに沈み込んだり、濡れて歪んで見えたりしながら、僕はいつの間にか眠り込んでしまった。