東京、山手の夜

Essay

大宮駅を出ると、特急列車は一瞬加速するかに思えたが、ゆるいスピードのまま、車窓の両側に広がる住宅の屋根の瓦のひとつ一つが見えるほどの速度で都心に滑り込む。いつも胸が高ぶり緊張する瞬間だ。田端駅を通過するころだろうか、まもなく上野に到着するとのアナウンスが流れると、僕の緊張は一気に頂点に達する。動悸がして手のひらはきまって汗ばんだ。新幹線がまだ開通していない時代のことで、線路が上野駅の広小路口に面する広場で断ち切れる。まさに終着駅だった。

山手線に乗り換えるために、ぞろぞろと他の乗客について大桟橋を渡り、というただそれだけの理由だった。待ち合わせの池袋駅西口交番まえにその知人が立ち、頭上のそこここで点滅するネオンサインが、赤くそして青くその知人の全身を染め、見ると僕の手も身体も色とりどりに光っていた。何年ぶりかで会ったせいか彼は大人びいて見え、自分も大人になった気さえしたものだ。

彼に連れられるままに歩いた。3月のまだ幾分ひんやりとした夜気と暗がりのどこかで匂う春の温い空気に頬を撫でられ、言いようのない不安と期待で、その時胸がいっぱいになっていた気がする。互いの会話が途切れて聞きとりにくいほど辺りは賑わっていた。西口公園沿いに歩き、立教大学の正門に差しかかると、街灯りが急に途絶えた。振り向くと西口の空がほんのりと赤く滲んでいて、はじめて東京に来た実感がした。大学の塀が切れ、川を埋めて遊歩道にしたコンクリートの道を左折すると、そこはもう静まり返った住宅地になっていた。銭湯帰りの男がひたひたと歩いている。静かすぎて、先ほど歩いてきた駅前の賑わいが嘘のように遠く感じられた。彼の部屋は銭湯がすぐそこに見えるモルタルアパートの二階にあった。何週間そこでいっしょに暮らしたのか、今となっては憶えていないが、銭湯の入り方から電車の乗りつぎ方を彼におそわり、休日には東京見物に連れて行ってくれた。

きまって新宿に行き歩行者天国をわけもなくぶらついた。彼がナンパ仲間と街に立っている間、僕は当時流行っていたジャズ喫茶で彼を待った。彼がいる街の喧噪を感じながら、その雑踏からほんとうに戻って来てくれるのか不安がっては、コーヒーをすすった。コルトレーンがよくかかる店だった。

山手線はどこからはじまるのかと言えば、それは上野だ。そこから東京がはじまった。そして池袋、新宿、渋谷と僕の行動範囲が時計回りと反対に回りながら広がっていった気がする。

夜のアメ横は閑散としてはいたが、周辺の歓楽街から上野駅や御徒町駅に通じる通り道になっていることもあって、人の声が絶えない。靴屋、ジーンズの店、アクセサリーの店、閉めかかる店もあれば、その横で煌々と灯りを点けて深夜遅くまで営業している店もある。僕はガード下のサングラスを売っている店を覗いた。店頭の一角に今ではあまり見かけない、マッカーサースタイルとでもいうのか、レイバンのたれ目型のサングラスが並べられ、ふとそれが目にとまった。そっとかけてみた。大きめなメガネの、鼻にのる重みの懐かしさと、どことなく恥ずかしくも感じられた。ガード下の暗がりがいっそう暗く、何も見えない。16,000円の値札がついていた。20年ほど前と同じだ。その数字に僕は一気にあのころに連れ戻されたのだった。

東京の暮らしにも馴れて、新しい友人もでき、どこへもひとりで行けるようになっていた。どこへ行った、あそこにも行って来たと互いに自慢しあう東京暮らし1年生どうしの友人だった。あるとき、東京に来たのだからサングラスでもかけよう、とその友人が言い出した。僕は知らなかったが、サングラスは輸入品のレイバンに限ると言い、アメリカ製はアメ横だと言うのだった。二人でアメ横を歩いていると、確かにやたらとサングラス店が目についた。形を見てこれがレイバンかと感激したものだ。戦後間もないころ、横田基地に降り立ち、パイプを手にしたマッカーサーがかけていたあのサングラスだ。にわかに欲しくなり、軒並み見て歩いた。どこも口裏を合わせたように16,000円の値札がついていたのを今も忘れられない。学生の身分にはとても高価で、1ケ月分のアパートの家賃より高かった。ふたりして考え込み、結論が出るまで忍ばずの池を一回りしたり、上野公園の売店でホットドックを買ってベンチで食べた。

夜の公園の高みからは、アメ横の上野駅側の入口にある鞄屋が見える。昔のままだ。夜の9時を回ってもまだ開いている。信号を待つ間、何人かが振り向き、買うつもりがあるのかないのか、鞄に触れ品定めをしている。店員が接客しようと近づくと、信号が赤から青にかわり潮がひけるように人々は駅の構内に吸い込まれて行った。

レイバンを買ったのは、それから何日か後の梅雨明けの暑い日だった。僕はポケットに2万円を差し込み、意気揚々とその入口にある鞄屋を目指した。そこは友人との待ち合わせに決めていた、誰にでもわかるような場所だった。その店からほど近いガードの真下の奥まった店で買った。友人とふたりしてレイバンをかけ、店から出てきたときまるで映画俳優にでもなった気分で、暗いガラス越しでも世の中が明るく輝いて見えた気がした。そのとき嬉しさに笑いが零れて、見せた友人の白い歯が印象的だった。僕はどこへ行くのでもそのレイバンを手放さなかった。自分のトレードマークにさえ思っていた。すっかり気に入り、暇さえあればクロスで磨いたものだ。あるとき何となくメッキの金色が薄くなっているのに気づいた。耳にかかる柄の部分がとくにすり減って、しまいには剥げるのではないかと気にした。でも16,000円もした本物のレイバンだから間違いはないはずだとひとり納得もしていた。

夏休みをそれぞれの故郷で過ごし、友人と再会したのは9月になってのことだった。新宿のジャズ喫茶の暗い店内でふたりで サングラスをしたまま聴き入っていた。曲に合わせて身体を揺する友人を横目に、言い出すに言い出せないでいた。メッキが剥がれたことだ。店を出て、通りを歩きながら何気なしに言った。「このレイバン、偽物かもな、メッキが剥がれた」「そんなはずないよ、本物だよ、16,000円もしたんだぞ」と言いながら、はずして見ると友人のも柄の辺りが薄く剥げていた。僕はそのとき本当はもっと気になることがあった。メガネの正面に「Ray Ban」のロゴが彫り込まれていたのだが、よく見るとBanのBがRになっていた。これではレイバンではな「レイラン」だ。友人のも同じようにBともRともつかない文字だった。

福島から上京して何年経っても、帰省して戻るたびにあのころの気持ちは変わらない。そしていつもはじめて上野駅に降り立った時のことを思い出し、胸が苦しくなる。

(初出:『旅』2001年4月号)