二つの故郷

Essay

 タイの特集なのに、ここには場違いの写真が並んでいる。
タイの東北地方の町、ウドーンタニ市近郊の田園風景と福島盆地を流れる阿武隈川、
スコールで濡れる南国と雪降る北国、そして、カラーとモノクロームの白と黒、一見して何の関係もないかのように思われる。
 しかし、僕にとってはこの2枚の写真は、ネガとポジの関係で、重ね合わせれば、
印刷の赤版と青版のようにピタリと重なって1枚になる。また、目を細めて1点を見つめれば、それぞれのイメージが分かれて2つになり、遠い記憶も分裂してそれぞれの時間、それぞれの居場所へと、いとも簡単に落ちてゆく。
 僕には2つの名前がある。
<瀬戸トオイ>と<瀬戸正人>タイの名前そのままの<トオイ>は本名で、<正人>は呼び名としての日本名、父の故郷の福島に移り住んだときに名づけられた。


以来、僕は二つの名前と二つの故郷の間を行き来してきた気がする。
時にインドシナの赤い大地で<トオイ>になり、<正人>と呼ばれてハッと我に帰る。何かの折りに名前を書くとき、どちらを書くべきかいつも迷ってしまう。
迷いの束の間、フッと温かい雨の匂いを感じたり、クーラーの冷気で、草枯れした阿武隈川の土手を渡ってゆく風を思い出したりする。
 僕が生まれたウドーンタニも後に育った福島も、東北地方という辺境の地としての印象がある。
中国で言えば、満州も東北地方で辺境の感がある。
僕は、個人的には福島は東北のほんの入り口で、関東のはずれと思っているが、
<東北>には、寒村、出稼ぎ、過疎、そして貧困、そんなイメージがつきまとう。
しかし、この<北>と<東>の交差する場所に僕の故郷がある。
 インドシナ半島の北東部、赤い大地を削りながらうねるメコン河は赤く濁っている。
そこへ阿武隈川が注ぎ込めば、澄んだ福島の水もたちまち赤く染まってしまうだろう。
裸足の少年だったころ、足に付いた赤土の鮮やかさと、桃畑の黒々と湿った土が忘れられない。
 そうした二つの土地に、僕は自分のアイデンティティーを感じている。
赤土と黒い土が混じり合う土地、そこにメコンと阿武隈の水が染み込めば、そこが僕の「故郷」だ。「故郷」は遠くも近くもなく、頭上で混ざり合っては流れてゆく風、あるいは交錯した記憶の襞のようなところにある。見ようとすれば、すぐそこに見える。そこは、記憶の土地であり、僕だけの領土だ。

(初出:『TRANSIT magazine』)