追悼 深瀬昌久

Essay

高台にある施設には、いつも午後の陽が溢れていた。木々が覆いかぶさる緑地が、眼下に細く長く伸びている。僕は、深瀬さんを見舞うのは、晴れた日の午後1時ごろと決めていた。車いすでその公園を散策することぐらいしか僕にできることがない。深瀬さんが倒れて3年間くらいは自分の名前を書いたり、僕のことを認識したりできていた。時には、こっそり煙草を吸わせては様子を観察し、いったい深瀬さんは今どこにいるのか推測したものだ。しかし、いつの間にか深瀬さんはただ窓を眺めているばかりとなっていた。
 ある午後、久しぶりに訪ねた時に、ふとベッドの枕元に置いてあるノートをめくってみた。見舞客が名前を書いたりするメモ用のノートだ
「狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、狂、・・・・・・」


 ノートの中程に3ページ半にわたって書いてあった。深瀬さんの字だ。自分の置かれている状況をわかっているのかと驚き、同時に僕は不安をおぼえた。脳挫傷で脳の一部が損傷したため、記憶も一部を残して喪失し、社会復帰の目安となる「意欲」も失っていると医師から告げられていた。自分の状況を認識できないはずだった。実際、何年もカメラをベッド脇に置いていたが、撮影した形跡がなかった。その深瀬さんがいつの間にか自分の状況を把握しているかのようにノートに殴り書きしていたのだった。僕は、思わず4階の窓際に立って真下を見た。赤やピンク色のツツジが並ぶ植え込みが建物に沿って連なっていた。深瀬さんが飛び降りるかもしれない。昼食後のまったりとした緩やかな時間、平穏なみんなの時間がホールに満ちていた。遠くに多摩地区の団地が整然と並び、波のように陽を浴びて白く光っていた。
「人生なんて退屈、写真は暇つぶしだ」
 深瀬さんの声が僕の耳に蘇った。退屈することさえ認識できない深瀬さんのはずが、もしかしたら全部わかっているのか。僕はホールのはずれのテーブル席に車いすを押しやった。そして、深瀬さんの顔を覗き込みその小さな眼を凝視した。
「深瀬さん、深瀬さ~ん、わかる? わかるかなあ!」
 深瀬さんの眼は微動だにせず、その瞳には四角い窓がフレームのように映り込んでいた。燃え盛る初夏の木々が波打ち、瞼の奥深くに光が揺らいでいた。午後の陽は、翻る葉の上で輝きを増したり弱まったりしながらも、深瀬さんの網膜に届こうとしていた。まさにこの世の光が、その心を呼び覚まそうとしていたのだった。なのに、いつもそうであったように深瀬さんの心はどこかへ飛んで行ったままだ。
「深瀬さん、これ、どういう意味ですか?」
 僕はノートを見せながら、「狂」の文字を指でなぞった。紙をなぞりながら深瀬さんの眼をずっと覗き込んでいた。聞こえているのかいないのか、ただ窓の向こうの明るい緑地が瞬きする深瀬さんの眼の中で輝くばかりだ。まったく無表情でも、たった一度の眼の瞬きには生のきらめきが感じられた。しかし、僕の声が届いているようには思えない。

 深瀬さん、自分の名前だけでなく、いろいろ書けるんですね、名前を書く練習しましょうよ。深瀬さんの写真が欲しい人がいたら、僕がプリントするからサインをしてください。サインがないと写真を買ってくれないですよ、だから練習しよう。<深瀬昌久>は画数も多いし難しいね!<Fukase>だけでもいいし、たった3画の<F>でもいいかもね、とにかく深瀬さんの字じゃないといけないみたいですよ。将来、写真が売れるようになったら、二人で暗室に入って分業でどんどんプリントしよう、そうなると水洗いも楽しいし、2Bの鉛筆でサインをするのも楽しみだと言ってたね。ボールペンでは何十年かしたら消えるから、鉛の入った鉛筆に限る!そう言っていましたよね。東京都写真美術館で「鴉」や「洋子」を50枚も買ってくれるそうですよ。サインするのも大変!でも、これほど嬉しいこともないし、それが生き甲斐で写真を撮ってきたのに、深瀬さんはそのことがわからない。サインは名前だろうけど、そんなものはどうでもいいこと、サインの代わりに「狂」でもいいや、だけど、最後に書ける文字がこの「狂」一文字ですか? それはないよ深瀬さん!

 1992年6月20日の深夜、梅雨前線が関東地方に横たわり、更けてゆくにつれて雨足が激しさを増していた。その晩、僕は自宅で寝ていた。台風のような雨風が窓を打って寝つけないでいたが、電話が鳴り続けているのにもしばらく気づかないでいた。
「深瀬さんが倒れた」
 ゴールデン街の「サーヤ」の声だった。
「東京女子医大!」
 それだけで事の成り行きがはっきりとわかった気がした。来る時が来たのだ。馴染みの店の慣れた階段で2度も落ちたから、ママが深瀬さんのためにと手すりまで付けてくれたのに、また滑り落ちてしまった。川崎の自宅からタクシーが降りしきる雨の中を走り続けた。雨が前からも横からも襲って来て、まるで水中を猛スピードで潜ってゆくような感覚がした。それは、病院に向かっているというより、深い海の底へ沈んでゆく深瀬さんを追いかけているようだった。

 あれから丸20年が経った6月9日も土砂降りだった。あの夜のような、そんな雨の日に深瀬さんの訃報を聞くことになるとは思いもよらなかった。僕は、長い間忘れていた「ハガキ」の行方を思い出していた。深瀬さんが倒れる半年ほど前に、不意に手渡された死亡通知のハガキだ。

     死亡通知
生前はお世話になりありがとうございました。私、
深瀬昌久は 月 日死亡しました。
なお、私の意志により通夜と葬儀は省略させてい
ただきます。
 199 年 月 日

 階段から落ちる半年前の秋ごろから深瀬さんの言動を不可解に感じていた。深瀬さんが、おもむろに箱を開け1枚のハガキを取り出した。「南海」の赤いカウンターの上、黒の縁取りのある白地の死亡通知だった。
「100枚あるから、俺が死んだら日にちを書き込んで出しておいてくれ」
「わかりました、預かっておきます」
 悪い冗談だと、僕は笑った。笑いながらいつものように深瀬さんの横顔を見、眼の中を覗き込んだ。黒いウィスキーのボトルが、その眼の中でいっそう黒い輝きを放っていた。横にいる深瀬さんがまたどこかへ抜け出している。
 1991年のことで、今あらためてそのハガキを見てみれば、あまりにも素っ気ない文面だ。「199 年 月 日」と記載してあるように、深瀬さんは2000年を迎えるつもりがなかったのかもしれない。思えば、僕にはいろいろと心当たりがあった。1989年ごろ、3年後の1992年にアメリカかヨーロッパでの展示の話が来たとき、深瀬さんが言った一言が僕には気になっていた。ある夜、部屋全体を遮光して、僕と深瀬さんは1m×1.6mほどの大きなプリントをしていた。海外での展示だから、大きくしようとのことだった。それがたった3年後のことなのに、遠い未来のことのように「1992年かあ、生きてるかな」と、暗がりで冗談めかして言うのだった。
 以降、深瀬さんの言動はますます謎めいていった。
 フランスのニースに住むと言ってみたり、表参道の店で高級万年筆を1本買って来て、作家になると言う。何を書きたいのか聞いたこともなかったから、それはあまりにも唐突だった。だが、当時ぽつぽつと海外で写真が売れていたから、もしかしたら海外の美術館などが写真を大量に買ってくれたのかも知れないとも思った。脈略なくものを言う深瀬さんだったが、その時ばかりは不可解というより、不吉でさえあった。妄想が膨らんで止まらない。あるいは、すでに深瀬さんの身に何か得体の知れない魔物が住み着いてしまったのかもしれなかった。そのころ、1日に3回も風呂に入って、潜っては水中カメラで自分の顔ばかり撮っていた。最後の写真となった「ブクブク」だ。
 社会復帰が無理だと告げられて、僕は深瀬さんの代々木のアパートや僕らが「別荘」と呼ぶ山梨の空き家で写真や私物など身辺の整理をしていると、ロッカーの引き出しから包装を開けてもいないもう1本の別の万年筆を見つけた。同じモンブランの太い金のペン先で、12万円の領収証も同封してあった。あの時、もうすでにあの世とこの世を分かつ川岸でひとり、深瀬さんは迷っていたに違いなかった。

 ある夏の夕暮れだった。
 森山大道さんが主催する「写真塾」に参加していた僕が、授業を終えていつものように帰ろうとしたとき、森山さんに呼び止められた。話があるからと2階にあったギャラリー<CAMP>の階段を降り、下から3段目ほどの入口付近にふたり並んで座った。路地を渡ってゆく風が、ふたりの間を抜けて階段をかけ上がっていた。助手を募集している事務所があるがどうかと言う。君にピッタリだとも言い、その場で連絡先のメモを渡されたのだった。
「コマーシャル写真の事務所だけど、そこに写真家の深瀬昌久さんもいるし、ちゃんと広告をやるのもいいと思うけど・・・」そんな風に言われた気がする。街の写真ばかり撮っている森山さんが、コマーシャル写真の事務所を紹介するとは意外だったが、細江英公さんの助手を勤めあげた森山さんだから、僕は何の疑いもなくその言葉を信じた。この先ゆく方向がはっきりしたとも思った。
 面接に訪ねた写真事務所には広告写真家の岡田正洋さんと野澤一興さん、そして深瀬さんがいるはずだったがその姿はなかった。日本デザインセンター仲間の共同事務所だ。あれこれと説明を受けていると、1時間もしないうちに、玄関横のトイレから深瀬さんが出てきた。坊主頭はいつか見た風貌そのままだ。僕が緊張したまま頭を下げて挨拶するも、深瀬さんは視線を返すこともなく床にゴロッと横になって煙草に火をつけるのだった。暗室作業をしていた様子だ。深瀬さんは低い床からわずかにのぞく空を見上げては、揺らぐ煙を弄んでいるのだった。深瀬さんが作業していたのは、ニコンサロンで展示する「鴉」のプリントだったと、後になって知った。思えば、不思議な事務所だったが、僕にはその後の自分の人生を決定づけたこの上なく幸運な出会いとなったのだった。
 深瀬さんはいつも寝そべっていた。畳の上に敷いた黒いカーペット床に灰皿を置いて、ひとり決まって煙草をふかしては、窓越しに隣家の壁をただ眺めていた。他の人たちがいてもいなくても、いつもそうしているのが常だった。それは、人ごとに無関心にも思えるが、ネコのように耳をそばだてて会話に聞き入っている風にも見うけられた。
 あるとき、僕が大宮にあるベトナム難民のキャンプ施設へ撮影に行ったことを皆に話したことがあった。自己紹介もかねて自分の写真について、3人みな揃うタイミングを見計らってその話をした。深瀬さんはいつもの床にいたが、僕は深瀬さんが聞いているに違いないと、その耳を意識しながら話を続けた。

 日に焼けたベトナム人たちが、コタツに入ってミカンをむきながらテレビを見ているんです。不思議でしたね。そうするものだと誰かが仕向けたわけでもないのに、する事がまるで日本人みたいですが、日に焼けた顔ですよ。それにどこからかもらって来た布団だと思うんですけど、赤い花柄模様の布団がコタツにかけてある。ここは日本の大宮には違いないけど、どこか異界めいているんです。僕にもお茶を出してくれて、しなやかな物腰や立ち居振る舞いが日本人よりも日本人らしい。底が白く化粧されたガラスコップのお茶が、仄かなジャスミンの香りがして、ぐっと異国を感じるんです。

 深瀬さんは完全に聞いていた。ネコのように耳だけこちらを向いている。窓からわずかに差し込む光に、一筋の煙草の煙がすっと立ちのぼっていた。代わり映えしない窓の外のモルタル壁に夕暮れの気配がしはじめてた。僕は、福島で父親が写真館を営んでいることや、母親がベトナム人で実家にも当時の南ベトナムから亡命してきた学生が遊びに来ていたから、ベトナム難民には興味があってキャンプに通って撮っていることなど、深瀬さんの耳にも届くように話していた。

 澄んだ緑茶がコップの中で幾分濁ってきた気がして、コップを揺すったらどんどん濁ってくるんです。ジャスミンの味も段々濃くなって、ぐっと飲み干してあれっと思ってコップの底を見たら、白いはずのコップの底が透けているんです。う~ん? これは歯磨き粉の味かもしれない!と、もう一度匂いを嗅ぐとやっぱりそうだったんです。さっき流しで目にした彼らの歯磨き用のコップに違いない。でも美味しく飲んだからなあ!

 深瀬さんの一重瞼の奥まった眼に、薄暗くなってきた部屋の窓に差し込む夕陽が滲んでいた。その話が面白いのか、むっくりと起き上がった深瀬さんがその窓の方に向かってほほえんでいた。無口で無表情の深瀬さんがはじめて見せる表情の変化だった。
 事務所には、3人のそれぞれの電話が窓際の机に並んでいた。
 ダイヤル式の黒電話の時代に、深瀬さんの電話だけが鶯色のプッシュホンだったのをよく憶えている。どの電話が鳴っても、助手である僕らが出ることになっていたが、深瀬さんの電話が鳴ることは滅多になかった。時折鳴ったとしても、どうしたことかそれは申し訳なさそうな弱々しい音色だった。当時の深瀬さんはあまり仕事がなかったのか、事務所に来ては床に寝転んだり、当時流行っていた映画監督が座るような布製のディレクターズチェアに深々と腰を沈めては机に脚を投げ出していた。そして、窓明かり越しにハイライトの煙を眺めては1日が過ぎてゆく。そんなとき、深瀬さんと二人きりになるとどう対応すればいいのか困惑するばかりだ。深瀬さんから何か声をかけられたり、用事を頼まれることなどもないのだ。
 事務所に来て、半年ほど過ぎたある日の夕方のことだった。
 僕は、現像の仕上がりを持ってラボから帰って来ると、北海道から戻ったばかりの深瀬さんがひとり、留守番でもするように電話の前に座っていた。そのとき、珍しく深瀬さんの電話が鳴り、僕は受話器をとった。「深瀬事務所です」と応答すれば良かったのだが、僕は咄嗟に「もしもし」と応対すると電話の向こうで「SMクラブですか? そこまでの道を教えてほしい」と言うのだった。僕は相手を待たせてそのことを深瀬さんに伝え、対応を仰いだ。すると深瀬さんは、そうですと言ってここまでの道を教えてやれと言う。
「原宿駅の竹下口を出て、竹下通りを真っすぐ来てください。明治通りを越えて300mほどで突き当たりますが、その手前に煙草屋があります、そこからもう一度お電話いただければお迎えに行きます」
 深瀬さんはニヤリとしながら、どんなヤツか見に行こうと言うのだった。深瀬さんと初めて交わす会話だったかもしれない。ほどなく2度目の電話が鳴って「すぐに迎えに行く」と告げると、深瀬さんは飲みに行こうかと誘ってくれた。僕らはニコニコしながら煙草屋の前を通ぎ、背広姿で汗だくの男を見捨てながら原宿の路地裏のちょうちんを目ざしたのだった。深瀬さんに連れられてゆく自分がここにいると思うと、何よりも嬉しかった。歩く道すがらも、深瀬さんは無口だった。僕はただついてゆくだけだ。明治通りに出る手前の道を右折するとすぐに居酒屋があった。ウナギの寝床のような細長い店の、長いカウンターの出入り口付近に深瀬さんが座った。まだ6時前で客はまばらだった。馴染みの店のようで、座るとすぐにビール1本とグラスが2つ出て来た。深瀬さんは自分のグラスにビールを注いだ。そこは焼き鳥屋だったが、串1本頼むこともなく深瀬さんは黙々とビールを飲んでいる。僕は自分のグラスにビールが注がれるのを待っていたが、深瀬さんはいっこうに注いではくれない。まるですぐ隣に僕がいることさえ忘れているかのようだった。会話ひとつもない。不思議な人だ。僕は、知らないうちに何かヘマをしでかして叱られるのではないかと思っていた。とにかく待つしかなかった。深瀬さんにこの際いろいろと写真のことを訊きたかったが、そのきっかけさえ見当たらないでいたのだった。2本目を飲み終えて深瀬さんは席を立った。このまま帰るのかと僕も立ち上がったが、店の奥の方へ行ってしまった。原宿という場所柄、サラリーマンや若者たちが混在する店内はいつの間にか満席になっていた。トイレに違いない。カバンを肩にかけて待っていると、戻って来た深瀬さんが3本目のビールを頼んですぐさま僕のグラスに注いでくれた。やっと注いでくれたものの意味がわからない。見ると深瀬さんの頬がほんのりと赤らんで、来たときより機嫌がいい気がした。
「君はいくつになる?」
 そろそろ25歳になると答えながら、僕は実家の写真館を継ぐべく修業のために20歳で上京して来たが、もう5年も経ってしまって出遅れた感もすることなどを言った。
「俺の家も写真館、君と同じだ、アンソニーは?」
「父は今でもアンソニーを愛用していて、スタジオではメインのカメラになっています」
 アンソニーは100kgはあろう木製の重厚なカメラで、写真館ならどこでも使っていた。常に画面の水平垂直が保たれた重いカメラは、ブレる心配がないため肖像写真を撮るには不可欠だ。僕とほぼ20歳違いの深瀬さんは45歳だったが、写真館の話になると友人のように雄弁になるのだった。
 3本目を飲み、もう1本いかがですか?と店員に声をかけられたが、深瀬さんは次に行こうと店を出て行った。僕は、連れられるまま明治通りを渡ってタクシーに乗り込んだ。
「花園神社!」
 タクシーにそう告げる深瀬さんの一連の行動は本能そのままのように思える。夜風が車窓の内と外を行き来しながら僕の耳元で渦巻いていた。新宿3丁目あたりに差しかかると、それまで追走していた宵の闇が人ごみにかき消された。深瀬さんは幾分前のめりに座り、じっと前方の遠いところを見つめていた。その小さな眼は新宿の街灯りのすべてを集め、自らの奥まった眼から光を放っているようだった。ほどなくタクシーは赤い鳥居の前に止まった。深瀬さんは決めた歩幅と歩数でもあるかのように鳥居をくぐり、足早に境内を抜けて行った。ライトアップされた神社のお社は、夏の夜の中で真っ赤に染まりその横を前後して歩く僕らをもほんのりと染めていた。
 群れ飛ぶ鴉を追って、北国のどこかを彷徨い戻ってきた深瀬さんには、それがたった1週間のことでもゴールデン街のこの賑わいが懐かしく、何よりも嬉しかったに違いない。2軒、3軒と梯子し酔いがまわるにつれて、寡黙な深瀬さんの心も解き放されていった。
 ふたり並んでバーのカウンターに座った時のことを思い出す。ふと深瀬さんの横顔を見ると心はもうここにあらずで、抜け殻のようになってただグラスを眺めていた。たぶんカラスに連れられて、しばしどこかへ行っていたのだろう。カラスが舞う夜の漆黒の中をひとり歩いて、何を探していたのだろうか。どこかへ飛んで行った心がふっと戻って来ると、何杯目かの水割りがいつも濃くなっていた。そんな深瀬さんに毎日のようにゴールデン街に連れられて、いつかしら僕もその町の住人のように通うようになっていた。「サーヤ」「南海」「こどじ」、この3軒のどこかに深瀬さんはいた。互いに行き違っても同じ細い路地で出会う。僕らは酔いに任せては写真の話をし、酔っていても写真の森では迷うこともなく語りあったものだ。深瀬さんはリー・フリードランダーの写真には、淡い空に細い電線が途切れることなく写っていると熱っぽく語る。そして森山さんの「光と影」(写真集、1982年)では、バラの花が陶器のようだと嫉妬していた。 写真に取り憑かれた、もうひとりの深瀬さんがそこにいたのだった。
 この世はことごとく退屈で、退屈しのぎに酒を飲み写真を撮るだけと、深瀬さんはうそぶく。しかし、写真に対する思いは並ではなかった。「俺も君も写真館の出」と僕に言いながら、自分にも言い聞かせていたに違いない。料理人が皿洗いから始めるように、写真家は写真の水洗いから始めると言う。僕はその水洗いが好きだった。流水の中で写真を下から上へ、下から上へとめくるその単純な繰り返し作業は、何かの呪にかけられているようで、目に見えない薬品が流れ出してゆくのが見える気さえするのだった。

 深瀬さんは季節ごとに、ひとり東京を離れて山梨の別荘に通っていた。別荘とは聞こえがいいが、ネコのサスケやモモに逢いに畑の中にあるその空き家に行っていた。そのついでにと、手狭になっている代々木のアパートの写真プリントや書籍などを運ぶため、僕の運転でレンタカーを借りて行ったものだ。ヘラブナが解禁になれば釣りに行こうと言い、桃の花が咲くころには、何の関係もないのに「馬刺しがうまい! 行こうや」と僕を誘うのだった。3年間の助手生活を終え、フリーになっていた僕もまた深瀬さんと同じでたいして仕事がなかった。3、4日の田舎暮らしは悪くはなかった。庭と地続きの畑を耕し、鶏小屋から集めてきた鶏糞を撒いて花を植えた。ヒマワリやコスモス、アサガオなどの種の袋の説明書通りに巻いて、朝夕、水をやった。作業に飽きると道具を投げ出しては縁側に座ってビールを飲んだ。芽が出ると間引きをしなければならないが、僕らは植えっぱなしで伸ばし放題にしていた。雑草の中でヒマワリが伸び、アサガオは地べたに這っていた。
 僕らは着くなり、決まって雨戸を開けて空気を入れ換え、それぞれの布団を出して来ては干した。そして、水道の元栓を開け、電気のブレーカーを上げる。庭はいつも伸び放題の草で道がなくなっているから、まず玄関のまわりだけ草を刈るのが僕の役割になっていた。深瀬さんが風呂場の石油の残量を確認すると、ふたり揃って甲州街道を越えた100mほど離れた母屋に出向き、預けられているネコのサスケとモモに逢いに行くことになっていた。しかし、いつの間にかサスケの鳴き声が庭のどこかでしていた。僕らが来ているのをいつも知っているかのようだった。
「サスケー! サスケー!」
 深瀬さんの大きな声が、静まりかえった畑の向こうまで届いて、立ち並ぶヒマワリの大きな葉を揺すっていた。繁茂する草に紛れてサスケの姿が見えない。モモの声はなかった。
「サスケー!」
「メキシコ・コスモス」と深瀬さんが言う黄色い花の隙間からサスケが姿を見せた。
「サスケ! おお、サスケ!」
 サスケに元気かと問いかけるように言い、東京から持ってきたメザシを差し出した。勝手口に3尾のメザシを置くと、サスケは嬉しそうにかじった。あっと言う間に食いつくし、気がつくと頭だけ3つ残っていた。深瀬さんはそれを不思議そうに見ながら頭を傾げた。魚好きの深瀬さんは、よく僕にメザシは頭から食うんだ、頭がうまいんだと言っていた。しかし、頭だけを残すサスケを見て、以後、何か体に良からぬものがあると深瀬さんも残すようになったのだった。
 その家には夜に着くこともあった。 サスケは寝ているのか姿がないこともある。深瀬さんとふたりで馬刺しをつまみに飲んでいると、酔った深瀬さんはおもむろに立ち上がって窓を開け、夜の暗がりに向かって「サスケー!」と叫ぶのだった。手を打つ音が、暗がりにそびえる甲斐駒ヶ岳の山なみにこだまして跳ね返るばかりでサスケに届いていないと見ると、縁側を降り、庭の暗がりで仁王立ちになって大きく拍手を2つ打つ。100m離れた夜道をネコがやって来るとは思えないが、深瀬さんは諦めない。

 ある年の、正月明けの仕事初めの日に深瀬さんの電話が鳴った。出ると深瀬さんの叫ぶ声がしていた。山梨の別荘からだった。ただならぬ声で「死ぬ~! 死ぬ~!」と言うのだった。相当酔っている声だ。傍にいた野澤さんがすかさず「死にたいなら死ねばいい!」と言って「切っちゃえ、切っちゃえ!」と、僕の手から受話器を取り上げて切ってしまったのだ。深瀬さんには自殺願望があった。離婚し、再婚して新しい生活をはじめたころ、深瀬さんは事務所にほど近い表参道寄りのアパートに住んでいた。平穏な午後のことだった。野澤さんは、留守番がてら事務所で本を読んでいた。静まりかえった部屋に、滅多に鳴らない深瀬さんの鶯色のプッシュホンが鳴った。「深瀬事務所でございます」と野澤さんが出た。すると電話の向こうで深瀬さんがわめいていた。
「今から首吊って死ぬから写真撮りに来い!」
 そんなことははじめてのことだったから、動転した野澤さんは深瀬さんがいるアパートに駆けつけたのだった。野澤さんの首にはハッセルブラッドがぶら下がっていた。深瀬さんは鴨居にヒモをかけ本当にぶら下がろうとしているところだった。「早くやれ!」と野澤さんはカメラを構えながら深瀬さんにけしかけたと言う。

 数日後、山梨の家から戻った深瀬さんが事務所に現れた。珍しく、その日は全員が揃っていた。深瀬さんの頭にはミイラのように包帯がぐるぐるに巻かれていた。「どうしたんですか?」と野澤さんが言った。またかと、野澤さんには深瀬さんの身に起こった出来事に目星がついていた。また酔っぱらって死のうとしたに違いなかった。

 旭川を北上し、名寄から20分ほどゆくと天塩川に差しかかる。前方に深瀬さんの生まれ故郷の町、美深の家々がまばらに見えてくる。「この川が米作の北限なんだ」と決まってそう言い「あ、あれがスターダスト!」と指をさす。目を凝らせば、その川の上空で凍てつく大気の中にキラキラした光の粒が漂っていた。僕がその珍しい光景に目を奪われていると、車窓を流れてゆく雪解けの川を見下ろしながら「いそうだなあ!」とも言うのだった。魚だ。釣りで山に入ると必ず川面を見やり、「いる、いる」と言うのだった。見えない魚がそこにいる。深瀬さんには池を見ても川を見ても、魚がよく見えていた。ヘラブナ釣りに連れて行ってもらった時も、その習性の不可解さを事細かに教えてくれた。一筋縄ではいかないネコや鴉と同様、魚もまた不可解なものだとあれこれ言う。北海道にいる間、何かにつけ雄弁に立ち居振る舞う深瀬さんもまた僕には不可解だった。
 礼文島の帰りには編集者と女性モデルが同行していた。美深の牧場や自然の中でヌードを撮るものと思っていたが、実家の写真館に着くなりスタジオに案内された。そして、すぐさまここで撮ろうと言い出し、家族を全員呼び寄せたのだった。
 深瀬写真館ではスタジオを写場(しゃじょう)と呼んでいた。階段を上がるとアンソニーが目に入った。北海道らしい高い天井に違いこそあれ、わが家のスタジオの造りと同じだ。大きな鏡があり照明器具が左右に置かれて、その真ん中に古いアンソニーが鎮座していた。何脚かの洋風のイスが壁沿いに並んでいる。
「アンソニーが傾いたままなんだ!」
 階段を上がる途中で、唐突に深瀬さんが言った。そして、恥ずかしそうに取り外されたまま何年も直していない脚元のキャスターに歩み寄った。アンソニーは3つのキャスターで支えられ、前後左右に動くようになっている。しかし、右側が抜け落ちて傾いてしまったのだ。傾いてはならないアンソニーが傾いているのが恥ずかしいことのように、深瀬さんはひとり気にしていた。僕は、不意に思いついて階下に下り、通りの石を二つ三つ拾い上げて隙間に挟み込んで何とか撮影できるようにした。
 モデルをヌードにし、深瀬家とは何の脈絡もなく彼女と深瀬一家との記念写真を撮ることになった。「お前も記念写真に入れ」とは言われず、「お前が撮れ」と言う。フィルムは8×10inchサイズではなく、ひと回り小さい八つ切という写真館ならではのサイズだ。久しぶりの家族写真なのか、みんな楽しげに並んでアンソニーに向き合った。断続的ながら20年も続いてきた「家族」の最後のシーンになると思い、僕は慎重にピントを合わせた。全員の集合写真を撮り終えると、深瀬さんは重厚なイスをひとつ引きずって来て、高齢の父親を座らせた。そして何を思ったのか、父親のシャツを脱がせて自分も上半身裸になった。家族のみなはアンソニーの背後にまわってそれを眺めていた。僕はアンソニーの擦りガラスに映る逆さの親子の姿を見つめた。瓜二つだ。痩せてあばら骨がむき出した父親の両肩に、背後から手をかけている深瀬さんもまた同じ骨格のままで立っていた。僕はふたりに声をかけてシャッターを切った。ふたりはみなに見守られ、写場に溢れる眩いばかりの光を浴びながら、アンソニーの奥まったレンズの、暗い穴の底でも覗くように見つめていた。「家族」の最後の写真だ。血脈の肖像の最後の1枚は、写真が常にそうであるようにあっけなく終わったのだった。
 遊び飽きた子どもがオモチャを捨てて砂場を離れるように、家族のみなが思い思いに階段を降りてゆくのを見届けると、深瀬さんはシャツを羽織ってひとり写場の明かりを落としたのだった。

 雨の朝、深瀬さんはいつものように朝食を済ませると、そそくさと車いすに乗せられてベッドに向かった。窓を濡らす雨が、音をたてて施設の屋根をも打ちつづけていた。午後にかけて大雨になると、注意を呼びかけるテレビ放送が食堂のあるホールに響き、その激しい雨と緊迫したニュースが人を高揚させるのか、食堂にいる老人たちの胸を騒がすのだった。深瀬さんは、10数年もそこで毎日毎日、同じように食卓につき同じ窓からいつもの緑地を眺めていた。川を見れば泳ぐイワナが見え、湖面のさざ波で深く潜るヘラブナの姿を想像する深瀬さんでも、カラスが居着かないその新しい林では、葉陰に潜む黒いカラスの姿を見いだすことはなかった。それでも、深瀬さんの耳にはカー、カーと鳴く声が、幻のように耳に鳴りわたっていたに違いない。この幻こそが深瀬さんが見たい写真であり、深瀬さんそのものだ。
 「遊戯」・・・それは遊び戯れること。深瀬さんにとって、それがすべてだった。遠い昔を昨日のことのように思い返しながら、深瀬さんは目を閉じた。瞼の裏側に漆黒の輝きを帯びたカラスたちが、ケヤキの枝を揺すっている。暗がりとそれよりもっと暗い闇の間を飛び交っている。
 風と雨になぶられた新緑の木々が、目を閉じる深瀬さんのすぐ下でその若葉の淡いを翻らせては、騒ぎ立てていた。ざわざわした葉ずれの音が、あの世からの声のように耳に残したまま、深瀬さんは深く息をした。吸っては吐き、吐いてはゆっくり吸った。吐いたら吸わなければならないのに、深瀬さんは最後の息を吐いたまま眠り込んだのだった。瞼の裏でカラスが鳴いている。カー、カー、カー、カー、・・・