森山大道全作品集 1

Essay

本の重さを量ろうなどと思ってみたこともないが、あまりにも重いので体重計にのせてみた。2.9キログラムもあった。念のためにその本を抱えてのったら、自分の体重が3キロ増え、体脂肪もぐんと増えて、何だか森山さんを抱えている気になった。動くたびに変動する数値を気にしながら、計りのうえで1973年のページをめくった。1964年のデビュー作からはじまる分厚い本の最後の章だ。写真学校に入学するために上京した、あのころに見たはずの写真を真っ先に確かめたかったのだ。「アサヒカメラ」に連載されていた、〈地上〉と題されている写真にはちがいなかったが、思っていた写真は見あたらない。おぼろげな目の記憶で、整然とならぶ写真とそのキャプションの文字を行ききしながら時代を溯ってゆくと、その直後に森山さんに出会うことになるぼくには、もうわからない領域になってゆく。折々に聴いていた写真のエピソードを思い返しても、知っている写真はわずか2、2割で、愕然とさせられる。

近著の〈新宿〉は400ページで、ますます厚みを増している森山大道写真集だが、600ページにもおよび1460点の写真が詰まった本著は、これからの数ヶ月の間に順次発行される全4巻の第1巻をなすもので、全体の4分の1に過ぎない。ひとりの写真家の、これまでに発表された作品のすべてを収録しようとする試みの、まだ序の口だ。全部そろえば、5700点にもなるという。
記憶にあったり忘れていたりしながらも、なぞるように目で追えば、自ずと森山大道の姿が見えてくる。もう一人か二人の森山大道がここにいる気がする。

1972年は「写真よさよなら」と「狩人」がほとんどを占めていて、代表作だからもちろんほとんどの写真を知ってはいたが、「蜻蛉」の縛り写真はどこかで見ただろうかと思ってしまう。後に見たはずだが、個々の写真についての記憶がない分、とても新鮮で意外だ。山間の村の小さな畑や草むらで、転がる裸体を上から下からと、目まぐるしく動きまわって撮る森山さんの姿がベタ焼きにも写っている。まるで生け贄を捕獲したかのような立ち振る舞いで、シャッター・マシーンと化して撮影している、もう一人の見知らぬ森山大道を見るようだ。

その前年の「an an」では、毛皮のコートを着てカメラを手にした、若き横尾忠則とその仲間たちがたむろしている。その時代の匂いと勢いのようなものを感じながら、港の埠頭で彼らはいったい何をしていたのか、よくわからない。どこかしらヤバイのだ。ここでも森山さんは動きまわって撮っている。スピードを保ちながら、日が傾いて海が暮れてもまだ撮っている。暗がりにフラッシュ・ライトをぶつけながらも撮ることをやめない。街をぶらつき、散策しては写真を撮る森山さんではないのだ。

毎月「アサヒカメラ」の表紙を飾り、グラビアも撮る。「アサヒカメラ」の連載のあいまにも「カメラ毎日」のグラビアも撮り、「週刊プレイボーイ」のために毎週のように街へ海へと出かけてはヌードを撮っている。「朝日ジャーナル」ではドキュメントだ。
「アサヒ芸能」「俳句」「フォトアート」「中央公論」……スタジオの加賀まりこに、ホルマリン漬けの胎児、芝居のポスター、そしてコマーシャルまで森山さんは何でも撮っていたのだ。撮りながら次々と湧いてくるひらめきをまた写真にしてゆく。自分が放した犬から逃げるように、今日の写真から逃げて、未だ見ぬ新たな写真をさがしにゆく。写真が新たな写真をつくりあげてゆくプロセスを見るようだ。

(初出:『森山大道全作品集 1』大和ラジエーター製作所)