二十世紀初頭の西欧とその百年後のアジア近未来都市を思わせる摩天楼、〈過去(グォチー)〉と〈現在(シェンザイ)〉の間に湾曲した河が流れる。かつてのように船の汽笛が鳴り渡るそんな黄浦江は、上海の〈未来(ウェイライ)〉をも垣間見せてくれる。
ダイナミックに変わりゆく街と変わらない暮らしが混然としていながら、何らその違和を感じさせない街、上海。
〈過去〉と〈現在〉と〈未来〉 が交差するハイウェイをサンタナが疾走してゆく。時としてタイムマシーンのように、百年の時を越えて私たちを異次元へ連れてゆく。街路樹のプラタナスのトンネルがその入り口かもしれない。
記憶の館、和平飯店
フロントガラスを射す夕日に向かってサンタナが疾走していた。飛び込んで来た光の粒が目の前でガラスにあたっては弾け散り、僕はその眩しさに目を細めた。前方から迫ってくるガラスと金属の近代的なビル群の煌めきを待ち受けながら、不安にかられて走ってきたセンチュリー・アベニューを振り向いて見た。まさに今、後方へ流れ去る街区に〈過去〉そのものを見ているようだった。
タイムマシーンのようにタクシーのサンタナが加速している。
簡体字で〈世紀大道〉と表記する、まるでそのまま未来へと行き着きそうな、片側四車線の真っ直ぐなその道の両側に、同じ高さ、同じデザイン、そして似た色の四十階建ての高層アパートが、壁のように建ち並んだまま、背後の大陸の地平に霞むまでつづいていた。
サンタナの運転手はいら立ちながら、時計を指して何か言った。わからない言葉を無視して、料金メーターの横の時計を見ると六時少しまえだった。
「間に合いそうにない……」そう言っているかのように、首を振りながら六時になろうとする長針を指先でたたいた。そしてふたたびハンドルを握りしめると、いっそう加速したのだった。いつの間にか、サンタナはメタリックで鋭利な尖塔のようなビルの影のなかに入り込んでいた。
「グランダ・ハイヤッタ・シャンハイ……ディー、イー(ナンバー、ワン)」
自慢げに親指を立てる運転手の不思議な言葉を耳にしながら、暮れ残った空を仰ぐと、シルエットとなったその超高層ビルが車のスピードでフロントガラスいっぱいに覆いかぶさってきて、そのまま一気に夜の暗がりへ吸い込まれたのだった。
運転手は子どものようにはしゃいでいた。両手でハンドルをボコボコと音をたてて叩いて喜び、そして「間に合った……」とでも言いたげに、時計を指し大きく溜め息をついた。六時に通行止めになるトンネルの交通規制にかろうじて間に合ったのだ。
車内に騒音と排気ガスが流れ込んでくると、僕も彼もドアのハンドルを回して窓を閉めた。黄色いサンタナは、別の時空に入り込んだようなトンネルの青ざめた光のなかで色を失い、深く、川の底へ潜って行った。
上海の真ん中を蛇行する河、黄浦江の下を走り抜けると、突如としてライトアップされたビルの谷間の中空のような高いところに飛び出した。ハイウェイのすぐそこを流れる人工の光が、車内にも入り込んでくる。そして下界にでも降りるようにUターンして、サンタナは南京東路の暗がりに滑り込み、和平飯店のまえに止まった。小さな回転ドアがまわってボーイが出てきた。そこは20世紀初頭の上海そのままだった。
振り向けば、今しがた通ってきた浦東地区のテレビ塔(東方明珠塔)もグランド・ハイアット上海ホテルもライトを浴びて暮れ残る空に浮かびあがっていた。すぐそこで輝きながら、溢れんばかりの光を持てあますように、頭上の夜気を帯びた淡い空に滲ませていたのだった。僕はサンタナに乗って未来に来たのではなく、世紀大道からトンネルを潜って百年まえの上海に来た気がした。その一世紀まえの租界から川向こ うの〈現在〉を見ているようだ。
キラリとした金ボタンの赤い制服のボーイについてゆくと、床も壁も大理石の重厚 なロビーに通された。見あげると壁にはアール・デコのステンドグラスがはめ込まれ、天上からは鉄を打ち出し大胆に装飾したシャンデリアが、当時のままの柔らかい光を落としていた。奥からピアノの響きが微かに聞こえてくる。完全にタイムスリップしてしまったようだ。僕は赤い絨毯を踏みながら部屋に通じる廊下を歩いていた。両側に点々と連なる、世界に開かれていたあの時代の灯りに照らされて、僕は暗がりに浮かんでは沈む自分が、そこを歩くだけで都会人になってゆくような不思議な感覚にとらわれた。そして、シンガポールから輸入した木材を、すぐそこの黄浦江の港で荷揚げして戻った商社マンのような顔で、重たい木の扉を開けたのだった。 和平飯店の八階には上海料理のレストラン<ドラゴン&フェニックスホール>がある。胡弓の素朴でゆったりとした音色が、漂うように店内を満たしていた。縁に装飾が施された百年まえの鉄の窓から〈現在〉が光り輝いてくっきりと立ち上がっていた。
小柄な指導者が何十年も夢見た風景だった。
「我々は、四千年間貧しかった、だけど今日からは違う、豊かになれる者から豊かになろう」
二十年まえに聴いたそんな言葉と眼下を行き交う船の汽笛が耳の中で渦巻いていた。
僕は〈過去〉からガラス越しに〈現在〉を眺めた。英国人によって<バンド>と名づけられた百年前の街並みにもライトを灯され、豊かになった者たちがぞくぞくと集まってきた。千人、二千人とどこからともなく現れ、もう岸壁には着飾った農民が1万人にも膨れあがっていた。そして背後に英国が築いた〈過去(グォチー)〉を感じながら、代わる代わるに対岸にある〈現在(シェンザイ)〉を、〈未来(ウェイライ)〉でも見つめるように眺めていたのだった。
窓ガラスに赤いチャイナドレスのウェイトレスが映るほどに外は暗くなっていた。 「ダイナスティー・レッド、プリーズ!」
かねてから<皇帝(ダイナスティー)>と名付けられたその赤ワインを飲んでみたかった。中国製のワインなどうまいのだろうか。<皇帝>という言葉の響きに、分けもなく惹かれただけかもしれない。ワインリストの筆頭にある一番安いものでも、農民の一ヶ月分の収入に匹敵する、そう思いながらその赤い滴を飲み干した。灯りにかざすと透ける、その軽やかな舌触り、熟成を拒むような荒々しい鉄の味と乾いた土の匂いがいつまでも舌に残った。
記念のアルバム
フランス租界の目抜き通りだったという准海路(わいかいろ)には、しゃれたカフェやブティックなどが軒を連ねている。高級品を扱っている店も多く、東京の青山辺りを歩いているようだ。僕は半年ほどまえに上海を訪れたときに通ったカフェをさがした。准海路に面した公園が見わたせる、通りの角にあるはずだ。週末とあって歩道から人々が溢れながら、デパートのショーウィンドウに見入ったり、店頭のパラソルでアイスクリームを手に談笑していた。ふと、休日の原宿を歩いているような感覚になる。押されるまま、大きなショーウィンドウがつづくその通りを歩いていると、白いウェディングドレスの若い女性がひとり二人と店から飛び出し、あとを追うようにタキシード姿の新郎が出てきた。雑踏の中で不意をつかれ、気になってそのあとについてゆくと、ワゴン車が待機していて二組の新郎新婦が乗り込んだのだった。そこはブライダル専門の写真スタジオだった。京都の〈ワタベ写真館〉が経営するそのスタジオには、何百着ものウェディングドレスやタキシードが用意され、新郎新婦はそこで好みの服を選んで、写真をとるのだ。半日をかけて近郊の公園やホテルのガーデンなどに、まるで雑誌のグラビア写真でも撮影するようにスタイリストやヘアーメイクのスタッフを伴って出かけるという。
同行させてもらえないかと頼んだ。二ヶ月後に式をあげるという新郎のリ・チャン・シェンさんと新婦のチャン・ジンさんが快諾してくれた。トンネルのようなプラタナス並木の木陰を出たり入ったりしながら、車はどこへ向かっているのか連れられるまま走るばかりだった。そして間もなく、洋館のある別荘地のようなこんもりとした林に着いた。小川が流れ、小道に場違いのように駐車しているクラシックカー、そして洋館のガラス窓、そのテラス、そこはまさに自然の中のオープンスタジオだ。雑誌モデルのようにさまざまなポーズで写真を撮っていた。花束を抱え、ときには踊ってみたり、絡み合ったり、そして抱き合ったりしてポーズをとっている。結婚を間近に控えた二人には、その気分を盛り上げるには十分過ぎる雰囲気だった。二十パターンほど撮っただろうか、22歳の新婦のチャン・ジンさんは一枚ごと写真に撮られるたびにキラキラと輝いてゆくようだった。
スタジオに戻ると室内の撮影だ。幾つかの部屋が設えてあった。中国風、西洋風、そして和風の部屋もあった。それぞれの服に着替えてまた撮る。一日かけて何十ものパターンを撮り、予算に応じて気に入った写真を選んでアルバムに収める。チャン・ジンたちは奮発して五千元(約八万円)の予算という。
僕にとっても楽しい一日だった。日本で結婚式を挙げて、ハネムーンは上海で数日を過ごす間に、ウェディングのアルバム写真を撮ってもらって、それを持ち帰るのもいいかもしれない。上海のいい記念になることだろう。
旧市街の暮らし
冬に訪れたとき、僕はプラタナスの木々に気がつかなかった。街のどの通りにも並んでいて、歩道を歩けばいやおう無しにその幹に触ってもいたのに、なぜかその記憶がない。それが夏になってその大きな葉が通りを覆いつくして濃い影を落としていた。
夏の午後のつよい日射しをさえぎり、空さえ見えない。高架なハイウェイから見わたせる近代的な街並みとは裏腹に、その下にはそうしたプラタナスの古くからの市街が 広がっている。
ある時、サンタナに乗って准海路(わいかいろ)を通り、どこかの角を曲がろうとしたとき、ふとレンガの瓦礫の山が目に入った。公園のある角だ。僕はとても信じられなくて振り返った。半年前に連日のように通ったあのカフェが赤い瓦礫になり、辺りはもうさら地になっていたのだった。おそらく七、八十年まえの目抜き通りが交差する街の中心で、ショップやカフェなどが並んでいたにちがいない。その後徐々に壊され角の建物だけが残ったにちがいなかった。角にありながら、その角が丸く湾曲したしゃれた建物だ。一階がテラスのあるカフェで二階が火鍋のレストランになっていて、いつも混み合っていた。僕は下でお茶を飲み、そのまま上へ行って辛い鍋をつついたものだ。それがわずか半年で跡形もなく消えていた。
普通車の黄色いサンタナはどこへでも行ってくれる。上海市内のどこへ行っても二十元(三百円)程度だ。僕は〈過去(グォチー)〉が見たくて、古い上海を探しまわった。何かの折りに通りかかった古い長屋の街並みが気になって、地図に記したり通りごとに掲げてある路の名をメモしたりしておいた。〈太田路―南蘇州路〉、〈昌化路―康定路〉などと紙に書いて運転手に渡すと、通じるようで喜んで連れて行ってくれるのだった。
木造の二階建ての長屋には、それぞれの暮らしがそのまま見える。 興味深く思い、じっと見ていても誰ひとり気にとめる様子もない。二階の窓に人影が見えては隠れ、その人が一階に降りて扉を開けて出かけてゆく。通りのあちら側から飛んでくる無関心な視線を受け止めながら、その通りができた八十年まえの〈過去(グォチー)〉から出てきたひとが〈現在(シェンザイ)〉を歩いている気さえしたのだった。
通りのこちら側では、ランニングシャツ姿の老人たちが道にはみ出て将棋に興じてた。カメラを向けると「どちら様の写真をお撮りになられているので御座いますか?」と、そのうちのひとりが言うのだった。日本語としてはっきりと聴き取れて、それゆえ不思議だった。僕は突如としてその太田路が建設された租界の時代に連れ戻されたのだった。
小さな鳥かごを覗き込んではお茶をすすり、何やら談笑している老人がそのそばにいた。淡い色のウグイスを、破けた表紙の古い図鑑と照らし合わせていた。上海語の、まるでケンカでもしているような強い語感が飛び交いながらも、そこには至福な時間が漂っていた。
(初出:『ザ・ゴールド』2002年12月)