記憶の最初のはじまりがどの場面からはじまったのか、僕は僕なりにはっきりと憶えている。間違いなく、あの目がくらむほどの、強い日差しが降り注ぐ午後の通りをぼんやりと眺めていた。行き交う人影さえなく、街は死んだようにただ日に晒されていた。そんな時間がとまってしまったような光景を、僕はたった一人で眺めていた気がする。温かいミルクが入った、ガラスのほ乳ビンをくわえながら、それを両手で抱えていた。飲み終えるまで、そのほ乳ビンをずっと持っていられなくて、休み休み手を離すと、はだけた胸に人肌より幾分熱く感じられるビンが触れて、呆然と午後の街を眺めながらふと我に返ったものだった。ほ乳ビンのガラス越しに、通りの眩いばかりの午後が白いミルクのなかに沈み込んだり、濡れて歪んで見えたりしながら、僕はいつの間にか眠り込んでしまった。
そこは写真館の店先だった。父がすぐそこでネガの修正をし、母が目の届くところで接客をしていた。頭上では大きな扇風機がゆっくり回り、通りから流れ込んで裏庭に抜ける熱い風をかき回していた。大きなショーウィンドウに飾られた、何枚もの肖像写真の隙間からその街のほんの一部が覗いていたのだった。
それが何歳のことだったのか思い出しようもないのだが、母によると、5歳になっても僕は午後のおやつとして、ほ乳ビンをくわえミルクを飲んでいたそうだ。長いすに寝そべることもあれば、ハンモックに揺られていることもあった気がする。そして店内のどこからもその街頭が見えていた。
タイ国のウドーンタニ市、東北部のラオスに近い街で、日本で言えば青森市といった感じかもしれない。僕はそこで生まれ、8歳まで暮らした街だ。そして、父はそこで写真館を営んでいた。後に父とは違う形ではあるもの、自分も写真をやるようになったのも、そうした環境だけでなくその時の記憶が深く関わっている気がしている。家の中のどこを見渡しても、そこに写真があった。写真の匂いがそこかしこに漂っていた。今でもあのとき見た、水の中でうねりながら泳ぐ写真を忘れられない。決まって肖像写真だから、水の流れで顔が歪んだり、微笑んでいるのに怒っているようにも見えたりした。
僕の〈写真への旅〉は、ひとたびそのころに立ち返り、まずは記憶をたぐり寄せて、ひとつ一つ検証することかもしれない。それは記憶の根本(ねもと)を揺さぶり、ポツポツと落ちてくる果実を拾い集めるような作業だ。赤い実も青く未熟な実も、そのどれを拾っても、水の中の写真のようにキラキラして、飽きさせない。
写真は実験の繰り返しだと考えている。表現などと大げさに言わずとも、何かを見たくてそして見つけたくて街へ出る。目の前の、誰もが知っている見慣れた光景にふと心が揺れれば1枚撮り、どんなふうに写るのだろうかとまた1枚シャッターを落とす。同じことの繰り返しだ。何年も何万回も同じ反復を繰り返しても、決して同じ写真にはならない。その時の、その場所の、確かに存在した風景や事物や、そこに立ち会い眺めた自分の姿がただただ写っている。現像されたネガを明かりに透かせると、確かにそのとき見た、気になる光景が反転されて、何か別の、いまだ見たこともないような情景として写真として写っている。極めて個人的な眼の実験で、これを実験と言えるのかどうかはしらない。ただ飽きることのない新鮮さがある。少なくとも自分が面白いと思っている間は、写真も生き生きとしているはずだ。僕はそう信じている。
〈写真への旅〉の出発点は、20年まえに遡る。写真で何ができるのか、自分にとって写真は何なのか、僕にはそんな写真に対する根本的な疑問があった。そして同時に写真家として自立してゆく覚悟もあった。ただその方法がすぐには見出せずにいたのだった。具体的に何を撮るべきかという、テーマそのものが見つからないのだ。写真は何をどのように撮ってもいいし、どのように見せてもいい。何にも縛られない自由なメディアなのに、そのころの僕は自分に縛られ身動きできないでいたような気がする。そして、どうにもこうにもならなくなって、旅に出る決心をしたのだった。行くべきところは迷うことなく決まっていた。行くならそこしかない。バンコクだ。そしてウドーンタニへ……
記憶のはじまりの最初の場面をもう一度見ることができるなら、見てみたい。もしかしたらそこに何らかの手がかりが見つかるかもしれないと思ったのだった。しかし、バンコクはよそよそしく、淡い記憶しかない僕には異国だった。少なくともはじめのひと月はそうだった。僕は毎日毎日、街を歩いた。そして、あてもなくただ写真を撮り歩き、人に触れて、いつからともなく街に馴染んで、気がつけば記憶の中の、あの日が降そそぐ午後の街を歩いていた。その記憶の街で眼にした風景をも写真に撮っていた気がしている。
バンコクからウドーンタニへ、そして母方の叔父や叔母が住むハノイへと足は伸びていった。たぐり寄せる記憶と写真が直面する、時代とすぐそこの現実との間で、僕は自分が立つべき場所を見つけた気がした。それ以来、アジアと日本の間、あるいは今暮らす東京と20歳まで暮らした福島の間を行き来している。まだ見ぬ一片の写真を探しに行っている。それぞれに違う風土が、それぞれに絡み合いながらひとつの景色として見ることができるとき、そこに写真が自ずと立ち上がってくるに違いない。立ち返っては、新たな写真への旅を繰り返す。それが僕の写真に対するスタンスと考えている。
阿武隈川はハノイを流れる紅河(ホン河)に似ている。河に沿って長い土手が築かれ、その土手からは河岸の町々や村々が見える。河を見下ろすと、水辺までのわずかな土地に畑を作り、野菜や花を栽培している。働く人々の姿がどこからも見渡せるのだ。そこで採れた青々とした野菜がカゴに詰められ、自転車に乗せられて、橋を渡って町の方へ運ばれて行くのも見える。それを一束だけ買い求める客の姿も見てとれる。
何十年も前の福島がそのままそこにある。コメを食べ、藁を刻んで泥に混ぜて土壁の家を作る。みんなで作る。河を渡れば街があり、橋を越えると田畑が広がって、遠くの山裾まで波打っている。一面の青い水田が眼に眩しく、見つめていると、今どこにいるのかわからなくなる。
赤い大地を削り、紅色に濁った河と雪をかぶった阿武隈川、そこに吹く風がふっと変わるとき、僕も瞬時にそのふたつの河を行き来できるような気がする。
(初出:「新世紀2001」展カタログ、福島県立美術館刊)