そこかしこに堆肥の甘い匂いが漂い、見わたせば、盆地の中の、骨みたいに白く立ち並ぶ桑畑に囲まれていた。母も生まれ、僕も生まれたタイ国の片田舎町のウドーンタニから、父に連れられて福島県の農村に移り住んだのは8歳の時だった。そこは父の実家だった。昭和17年に出征して行った父が20年もの間、音信不通だったため死んだものと思い、次男の正次が継いだ農家でもあった。
1961年、僕はまだ〈トオイ〉と呼ばれていた。
ウドーンタニの写真館を整理して、3年したら母と弟と妹を連れて戻るからと言い残して父はタイに帰り、それからの3年間をこの村の桑畑に囲まれた藁葺き屋根で暮らすことになった。桑の葉を喰って透明になってゆく蚕のように、堆肥の匂いの中で、ラジオから流れ出る吉永小百合の歌声が涙で濡れるのを聴きながら、意味もわからずに口ずさんでいるうちに、僕は〈トオイ〉から〈正人〉になり、日本人になってゆくような気がしていた。兄貴分でどこへ行くにも一緒に連れて行ってくれた実さんが、1円玉を握って「見せてくないしょ」と言って立ち寄った村の地主の家で、はじめて見たテレビに力道山が縦横無尽に立ち回る姿があった。金髪を振り乱し、額に噛みつくなど思いもよらない事をするブラッシーは、獣であり敵そのものだった。血だらけになった力道山がふらつき、もしかしたら噛み殺されるのではないかとさえ思ったものだ。しかし、リキが力を振り絞って伝家の宝刀空手チョップを振り下ろせば金髪の獣も羊に見えて、一発一発、日々鍛えあげた肉体に力がみなぎり、見ているだけで勇気づけられたものだ。
2年ほどして、僕と妹が預けられた家にもテレビが来た。正次が5万円も出して買った三菱の白黒テレビで、4本の細い脚で立ち、小さな画面を大きくして見ようと水を入れたようなレンズが付いていた。まるで熱帯魚の水槽のように青くひかり輝いていた。覆面を被ったデストロイヤーの登場は衝撃的だった。それは悪魔だった。必殺技の四の字固めにかかれば、力道山とはいえども一巻の終わりだと解説者も言っていた。空手チョップの手の先が水槽のような画面から飛び出し、白い覆面を血で真っ赤になってもデストロイヤーは決して倒れなかった。それどころか、チャンスをうかがい、ついに必殺技をかけてしまったのだ。
「四の字固め、四の字固め、入った、入った、ついにかかりました、危険です、あ~、靴ひもが絡みついた、とれません、大変な事になりました」叫ぶ解説者の声で奥の間で寝ている蚕も騒ぎ出すのではないかと思うほどだった。次々と外国からやって来る怪物のようなレスラーたちを相手に、イノシシのように突進する力道山に〈日本人〉の懸命に生きる姿を見たような気がしていた。それは父の祖国、僕にとっては異国の日本の農村にいて、日をいっぱいに浴びたまま枯れてしまったワラの匂いを嗅ぎ、〈トオイ〉が〈正人〉と呼ばれ、自分が日本人になってゆくプロセスでもあった。力道山がどこからやって来たか知らずとも、その凛々しい姿を見て日本人に成りたいとひとり思ったのだった。
土間と囲炉裏のある薄暗い部屋で、ひときわ明るくそして青く明滅する光の中で力道山は闘魚となって泳いでいた。
(初出:『朝日新聞』1997年6月21日夕刊、朝日新聞社)