1999年の幸福論

Essay

なぜかあの時の光景が忘れられない。トヨタの大衆車「ファミリア」がゆるいカーブを曲がりながら、真新しい団地の丘をあがっていった。白い建物と芝生の陰影がくっきりとしていて、眩しい。辺りには 午前中のものと思われる清々しい空気がそこかしこに漂い、立ち並ぶ同じ形の建物の上空には雲ひとつない青い空が広がっていた。初夏だった気がする。街路樹がまだ植えられていないはずなのに、季節を感じさせる木々がどこにも見あたらないのに、なぜかそう思い込んでいる。

敷いたばかりの、まだ根付いていない芝のうえに車体の半分を乗りあげて、車は止まった。1000CC程度の、いまから見れば小さな車に乗り込んできた一家四人が、坂道で傾いたままの車を揺らしながら降りてきた。そして、待ちきれないのかその道 を横切って建物の中に駆け込んでゆくのである。若い父親と母親のあとを追うように中学生とその妹がついてゆく。「まあ、キッチンに流しが付いている、窓もあって明るくていいわ」と台所で母親が言うと、そばに立つ父親が手をのばして「蛍光灯も付いているぞ」と、流しの手もとを照らす10ワットほどの短い蛍光灯を点けてみせるのだった。子どもたちが「冷蔵庫もある」とはしゃぎ、母親はすぐ横の洗濯機のふたを開けては閉めて、幸福そのものにでも触れるように、つるつるとした塗装の表面を撫でていた。四畳半の台所に流しセットと白い冷蔵庫、その横に同じ白の洗濯機、そして部屋の中央に家族四人が食事をするテーブルセット。市松模様のしゃれたプラスチックタイルの床も見えないほど、狭い部屋で食事もし、洗濯もする。それでも、これからはじまる豊かな生活の、満たされた気分に浸りながら目を輝かせていた。すぐそこの居間で脚のついたテレビが青くひかりながら瞬いていた。冷蔵庫にカギが付いている時代だった。それは、日本人がはじめて居間と食卓を分離した瞬間だ。憧れていた文化的な生活が手に入った瞬間でもあった。そして、ふたりの子どもたちはやがて成長して、 後に〈ニューファミリー〉と呼ばれる世代となったのだった。

昭和四十年代のテレビコマーシャルに、そんな白黒テレビの画面が輝くばかりの幸 福な場面があったことを思い出しながら、僕は錆び付いた冷蔵庫の縁を眺めていた。
それから十年ほどした、クリスマスが間近にせまった寒い日のことをよく憶えている。ベトナムからの難民が収容されている埼玉県大宮市の赤十字の施設を訪ねたことがあった。クリスマスパーティーがあるから来ないかとの関係者からの誘いだった。

廃校になった小学校の校舎がそのまま使用され、やたらと広い教室に三、四家族が四隅に陣取り、真ん中にコタツがあって皆で共有していた。木造平屋の校舎に足を踏 み入れただけで、あの時代の真っ白な冷蔵庫が目の奥に蘇ってくる。その教室にあのころ僕たちが憧れてやまなかった冷蔵庫や脚のある白黒テレビ、伸しイカのようにして脱水するローラーが付いた洗濯機が置いてあった。すべてがすでに錆び付いた旧式の家電で、〈ニューファミリー〉になった僕たちが捨てたものだった。輝いていた夢のような品々が一度捨てられ、どこをどう彷徨ってきたのか、その部屋の片隅にある。
社会主義の窮屈な暮らしに見切りをつけ、故国を捨てて海を渡ってきた若い彼らには、国連の管理下にあるとはいえ、夢と希望、そして自由があった。すでに豊かなるものを手に入れ、さらなる欲望へと突き進んでいった日本は彼らの定住を許してはくれなかったが、数ヶ月まえの、小舟で南シナ海の波間を漂っていたことを思えば、それはそれで十分に幸福だったにちがいない。

バラの花柄の布団がかかったコタツを囲んで、日に焼けたベトナムの人たちがミカンの皮をむいている。寒そうに背中を丸めながら冷たいミカンを頬張って、身をすくめている。不思議な光景だ。そこに座っていたひとり一人が僕自身だったのかもしれない。ガラガラと木枠の窓を開けると、廊下にクリスマスツリーが忘れられたように置かれ、まだ明るいのに色とりどりの電球が点いては消え、また点いた。

際限なく追いかけても「青い鳥」は逃げる。見ようとすれば、彼方に青い影が霞んで見えるような気もする。エスケープ、それ自体何にも代えがたい幸福かもしれない。逃走の果ての異国に若者たちは、もう一つの故郷を見つけられるだろうか。

(初出:『朝日新聞』1999年1月4日号、朝日新聞社)