読書日録

(上)
一九八三年の冬、僕ははじめてベトナムのハノイ市を訪れた。もう一八年も前のことになってしまったが、それは思いもよらない一通の手紙を受け取っての、想像すらしていなかった社会主義国への旅となったのだった。母を連れてのまだ見ぬ故郷への旅とも言える。

ベトナム戦争が終わって八年目の冷戦のさなかで、今のように渡航が自由にできる時代ではなかった。僕はその手紙を手に代々木にあるベトナム大使館に相談に行った。そして、差出人である母方の家族に会うための渡航許可の申請をした。母はベトナム人で、その二十年前に別れ、戦争で音信不通になったままになっている姉や妹の無事を知って、会いに行くことになったのだった。ビザがおりるまで一年近くかかった。同封された小さな写真の豆つぶのような小さな面々に朧気な記憶が蘇ってくる。「いらっしゃるなら、テト(旧正月)に……」とのことだったので、一月にビザを受けとって慌てて出かけたのだった。

ハノイは霧雨の降るしっとりとした静かな街だった。音もたてずに自転車が行き過ぎ、抑制した人々の声がすぐそこでしたかと思うと、湿った大気に吸いとられてすぐに消えた。旧市街などは、アッジェの写真で見た中世のパリのようで、賑わいのなかに不思議な暗さを感じさせた。テトを挟んで僕たちは三週間ほど過ごした。物が不足気味で、トイレット・ペーパーもない不自由な毎日だったが、二十年ぶりの再会は話すことが山ほどあって、このうえなく充実していた。しかし、僕と母はなぜかもう二度とくることがないような気がしたのだった。僕たちには遠い国のように思えてならなかった。

最近読んだ「戦争の悲しみ」にそのころのハノイが描かれてある。いつ廃線になったのか、ホアンキエム湖に沿って走り旧市街をまっすぐに突き抜ける路面電車、裏路地のアパート、そのアパートの窓から見える並木、西湖で泳いだ思い出、そして紅河の赤く濁る流れ。著者のバオ・ニンは、回想するようにまるでその後の数年間の僕の記憶のつづきを書きとめているように思えるのだった。

(中)
「戦争の悲しみ」を読んでいると、中部高原の密林でキエンと同じ地獄を見、奇跡的に生還した叔父の話がけっして大げさではなく、むしろそんなことが当たり前すぎて恐ろしい。わずか三週間のハノイでの滞在で、母は過去二十年分の時間を埋めるように、姉や妹そしてその家族と多くの時間を家の中やその庭で過ごした。話題はいつの間にか、いや、いつも戦争の話にもどってしまう。僕は母の通訳で、その叔父の戦争体験をよく訊いたものだ。はじめて訪れた母方の祖父母の故郷ではあるが、ハノイの町など母にはどうでもよかったのか、どこを歩いても、母の眼中にないように思われた。叔父や叔母は町を歩いているときも戦争のエピソードを披露し、僕らをよく笑わせ、笑いながら皆の目から涙が滲み出た。ハノイは色のない街だった。人々の着ている服は灰色か黒で、ベトナム戦争が終わって八年もたつのにまだ喪に服しているようだった。思い描いていた社会主義国の暗さそのままだ。

一九八三年は、思えばその直後にはじまるドイモイ(改革解放)の前夜だった。僕が二度目にハノイを訪れたのは一九九一年になってからのことで、街のそこここで真っ赤な火炎樹が立ち並び、道ばたにこぼれ落ちたように草花が咲いていた。春だった。女性たちはカラフルな民族衣装のアオザイを着て、オートバイに跨ったり街を闊歩していた。それは季節ではなく、時代だった。世界が大きく変わりベトナムもすっかり変わったのだ。かつて叔父から聴かされ、母といっし?涙した戦場での体験談も色あせてしまった。自由と独立のための、民族をかけたあの凄惨な戦いは誰のためだったのか?

生きて帰って来たバオ・ニンも僕の叔父も、小説のなかのキエンのように回想のなかに生きている気がしてならない。今ではベトナムの人口の半分は二十歳以下という。もう誰もが忘れ去った戦争なのかもしれない。「バオ・ニンに会いたい」と言ったら、叔父が連れて行ってくれた。〈めるくまーる〉から発行された本をもって、会えたらサインしていただけるかな、との軽い気持ちだった。

(下)
1995年のことだった。すでにバオ・ニンの「戦争の悲しみ」が発表されて4年が経ち、ロンドンで翻訳されていたが、それを知る由もなかった。初めてのハノイ訪問から十二年が経ち、僕はある決意をした。ずっと思い描きながら、なんらその方法を見いだせないまま時間ばかり過ぎていた。あのとき見たハノイの町並みの、不思議な時間の流れが気になってならなかった。真っ暗な夜の街を足音もたてずに歩くひとびと、ゆったりとした暮らしとその佇まい、その暮らしそのものを写真にそのまま写しとめたいと思ったのだった。町並みを(そのまま写しとる)、僕にとっての実験のはじまりだ。

旧市街にほど近く、西湖にも歩いていけるところに叔父の家がある。僕はそこにお世話になり、午前中は小さな商店が建ち並ぶ古ぼけた旧市街の写真を撮っていた。道を挟んだ向かい側に立ち、通りの角からつぎの角までカメラを移動させながら、測量するように街そのものをスキャニングするように克明に写していた。小柄なベトナム人の背丈にあった間口の狭い店が次々とカメラの磨りガラスを通過しては、1枚1枚記録されてゆく。それを10メートルもある長い印画紙に定着させるのだ。絵巻のように街がただただ連なって、行き交う人もそこにある街も、連綿たる時間さえも見えるにちがいない。

その実験は今も続いている。大型カメラの磨りガラス越しに映る、天地逆さまの街を眺めていると、バオ・ニンが書き僕も垣間見た80年代の、もう皆が忘てしまった禁欲的なハノイの姿がくっきりと見える気がする。
昨年、叔父が運転するオートバイの後部座席にまたがり、市内を走り回っていたとき、日の丸の旗が一際目だつ日本大使館の前を通り過ぎた。何を思ったのか、叔父は確かこの近くのはずだと、「ベトナム文芸家協会」に連れて行ってくれた。そこにバオ・ニンがいるというのだ。僕らは、3階建ての建物の最上階にある彼の部屋に通され、待っている間もすぐそこに彼がいると思うと、僕は鼓動を押さえられなかった。廊下の突き当たりの、部屋の窓から赤い瓦屋根がのぞき、そこから絶えず風が吹き込んでいた。乾季から雨季にさしかかる爽やかな日の、そよ風に乗って街から聞こえてくる人々の声や自転車の行き交う音などを聴きながら、わずか10分か15分間ほど待っていた気がするが、僕は半日もそこにいたような感覚にとらわれた。
彼は現れなかった。すでに酩酊してしまい帰宅してしまったと、事務の女性が告げた。まだ朝の冷気がそこここに残る時刻だった。
***
翌年、思いもよらずに東京で彼に会うことができた。1月の寒い日だった。東京外語大の招きで来日したバオ・ニン氏と対談する機会を得て、大学の研究室で待っていると、ハノイの彼を訪ねたあの日とちがって、どんよりとした窓に雪がちらついていた。バオ・ニン氏は小説の中のキエンと重なったり重ならなかったりしながら、ことのほか物静かな印象をうける。そして太い骨格と引き締まったベトナム人らしい身体からは仄かにアルコールの甘い匂いがしていた。僕は「スクロール・ハノイ、1995」と題した巻物になったハノイの旧市街の写真を差し上げた。のばせば6メートルほどの長さだ。写真を伸ばしながら、つぎつぎと連なる街のようすに見入っていた。そして、それを巻き戻すとき「20世紀は離別の世紀だった」と、ぽつりと言ったのだった。

(初出:『週刊読書人』2001年8月)