文庫化にあたって

(上)
そろそろ4年にもなるのかと、奥付に記されたままになっている発行日と、そこから刻みはじめた〈時〉の速度に驚きながら、いくつかのエッセイと何冊かの小説や写真集の書評を書き、そう短くも長くもない小説を2作書いて、いま、3作目を書き終えようとしている。あわせるとこの間に600枚ほどの原稿を書いてきたことになる。書きながら、カチ、カチと音をたてて刻みつづける〈時〉の足音に追い越されるのを感じて、追いつこうとしてもいつも振り切られてしまう。置き去りにされてその〈時〉の行方を見失うと、きまってぼくの前に一本の樹が立ちあらわれる。その樹が見おろす庭と、路地をつたって出てゆく見なれた街路がすぐそこに見えて、ふっとそこへ連れもどされてゆく。そこへ引きもどされて、ぼくはもうひとつの〈時〉を垣間見ながら、往きつ戻りつしていた。
行けば見える、見ようとすればすぐそこの赤土の庭に、〈マカーム〉とぼくらが呼んでいたタマリンドの大木が見える。ぼくは(トオイ)と(正人)がいるそのタマリンドの庭で遊んだ。裸足のまま走りまわると赤い土が足についた。暑いからとシャツを脱ぎ捨て、雨が降ればその雨に打たれたくて裸になる。ぼくらはいつも雨に濡れていた。雨は見ているだけで濡れた。その雨のなかで、ぼくは(トオイ)になったり(正人)になったりしながら、朧気にも、ときにくっきりと浮かんだり薄らいだりする、記憶の街を歩いていた。そこは赤土の街だった。落ちてくる大粒の雨はいつも温かい。迷いながら歩き、気になってポケットに手を差し入れると、体温よりも熱く感じられる記憶の地図がたたまれてある。
書き終えようとしている三つ目の小説も、前作の、そう短くも長くもないふたつの小説も、この記憶の地図をもとに書いた。その地図に記された四角い井戸が望める赤土の庭で書いた。その庭を覆うタマリンドの木陰で書いていると、葉の陰に零れ落ちてくる日に触れたり触れなかったりしながら、ぼくはいくつかの〈時〉をゆききしていた。
(トオイ)と(正人)と、そして〈マサト〉のどの〈時〉にいても、足に着いた赤土の粉が気になってならない。雨のなかでその赤い土を洗い落とすと、路地を真っ赤にして雨水が流れ出てゆく。そしてメーンストリートの、日が射せば足跡がつくほど沸々と泡立つアスファルトの表面を撫でて、ナマの水は低いところへ流れてゆく。赤い雨水は通りに沿って流れたり、その通りを横ぎって道でも渡るように滑ってゆく。湯のように温かい雨水は低いところを探して、ためらったり迷ったりもする。
想い描く物語も蛇行しながら流れている。いくつかの〈時〉に遮られて、そここで切れ切れに寸断されてゆくその流れを、ぼくは必死につなぎ止めようとしている。すでにそれは破綻しかけているかもしれない。そう思いながら、記憶の街に帰ってはおりに触れて記憶の地図をめくっている。
赤土の街の、メーンストリートに面したわが家は、その通りに開いた大きなショーウィンドウがある写真館だった。父は家族のひとり一人を写真に撮り、自分も映画俳優のように膝をたてそこに肘をのせて気どったポーズで母に撮ってもらった。そしてその1枚1枚の写真を装飾をほどこしたフレームに入れてショーウィンドに飾った。ぼくたちの家族は、写真館の見本としての肖像写真となって、並んでそのメーンストリートを見ていたのだった。すぐそこの街が燃えるような午後の日に晒されたり、決まりきったようにやってくる夕景のスコールに、アスファルトの道が水没するのを眺めていた。水に浸った道を少年が膝を高く蹴り上げて駆けてゆく。日に焼けた少年が、水のなかでいっそう黒々と肌を光らせて、ピチャピチャと水を跳ねあげてゆくと、それを追うように濡れそぼった犬がガラスのショーウィンドウを横切ってゆく。野良犬でもどこかの家の飼い犬でもない、見馴れた町の犬を追うように、ぼくらはくっきりとしたフレームのなかから眺めていた。濡れたガラスを透かして見れば、それは淡い景色だった。
記憶の街のその淡いに日が射せば、赤い土が舞い上がって黒いアスファルトの道をうっすらと染める。たちのぼるタールの匂いに、まるであの豪雨が夢であったかのように現実に引きもどされて、そのくっきりとした匂いに心を奪われる。
本著の、ぼくが自分で描いた個人的なエピソードから、そして、記憶だけをたよりに連れられてゆくままに行った街の、記憶の地図から、ぼくは小説という仮そめの街の、ほんとうにあった事なのかなかったのか、そんな赤土の架空の街のエピソードを書いている。書きながら、ぼくは「トオイと正人」のたしかにあった〈時〉に帰ることができる。もしかしたら、書かかないかぎりそこへは戻れないのかもしれない。
赤く灼けた記憶の大地をすこし掘り起こすと、すぐしたに黒く湿った土があらわれる。手についたその黒々とした土を見るなり、堆肥の甘い匂いが覆いかぶさってきて、思わず後ずさりするとその甘酸っぱい匂いに纏わりつかれて、ぼくは胸を締めつけられてしまう。手についた黒い土を払いながら、その指先を嗅ぐと仄かに(正人)の匂いがする。そして、すぐそこの灼けたさらさらとした土に目を落として、ぼくは(トオイ)を探す。灼けた赤い土の色が目に滲みて網膜をも赤くすると、辺りは乾いて見え、湿った黒い土を見れば目は潤んでしまう。ぼくはそうして片方の目でインドシナを見ながら、もう一方の目で阿武隈川の川面を眺めてきた気がしている。赤い大地を削るように流れるメコン河が阿武隈川に注げば、瞬く間に赤く濁ることだろう。ぼくは赤い河が薄まってゆくさまを見ている。土手に挟まれた阿武隈川が、インドシナの土で赤く染まって山あいの竹やぶにその姿を消してゆくのを眺めている。
ぼくは(トオイ)が(正人)という日本人になった時の間を思い出すことができない。しかし、(正人)が(トオイ)を発見した刹那の匂いをありありと憶えている。(マサト)もすぐそばにいた。3人そろって、そして3人して並んで、その重たくそして濃密すぎてどこへも拡散できないでいる匂いを嗅いでいた。20年の時を経ても変わらないケミカルの匂いを嗅いで、懐かしいと思ったり切ないと感じたりしながら、(トオイ)は(トオイ)の<時>へひとり帰り、(正人)はすぐそこの(マサト)に目をやる。ランプの火影から噴水のように吹き上がっては零れ落ちるアセチレンの匂いに纏わりつかれて、3人は並んだままその記憶の匂いを吸い入れては吐いた。深く吸えば吸うほど、やすやすとそれぞれの〈時〉に戻ってゆける。ぼくはその3人の〈時〉を垣間見ながらそこへ足を踏み入れて、皆を探しまわる。どうしても皆を探し出したいというわけではない。どこかにいてくれればいい。どこかにいて、それぞれの〈時〉を生きていさえすればいい。在るのか無いのかわからない、三つの〈時〉のなかで、ぼくはその3人の気配を探すふりをしている。
ガラス越しに透けて見える通り、ショーウィンドウの向こうに行き交う淡い、だけどすぐそこで炙られたアスファルトが放つタールの匂いがガラスに遮られて届いてはこない。
この本は、ぼくにとっての物語にもならない記憶の断片にすぎない。読み返してみて気恥ずかしい気もする。だけどここを出発点にしたいと、いまでも思っている。見ようとすれば、3人の姿がどこからも見える。今からはじまる物語があるとすれば、その3人に連れられて、どこかへゆくことになるのだろう。

2002年、7月2日、アジア国にて
(初出:『週刊読書人』2001年8月)