少女のマジック

このところベトナムのハノイに行くことが度々ある。おもに雑誌の企画などで撮影に行くのだが、宿泊先は決まって湖にほど近い旧市街だ。おそらく何百年もの昔から街の中心であったに違いない、ホアンキエムという楕円形をさらに細長くしたような湖がある。周囲1キロメートルほどの湖畔には、巨木になってしまった木々がその湖を取り囲むように立ち並び、湖面にせり出すように大きく枝をのばして、濃い影を落としている。春には火焔樹の太い枝が、赤い花をつけたまま水の中に潜っているところもある。日が傾くころ、木々の影が水面に長くのびて、さざ波に揺れながら湖に映り込む赤らんだ空に溶け込んで見えなくなる。夕刻になると毎日のように大勢の市民が長い影を引き連れてそこにやって来る。老人や子ども、恋人たち、それに靴磨きや絵はがきを売る少年、ドル札をベトナムの通貨に両替してまわる少女たちとその母親、それに今となっては骨董品と言ってもいいような年代モノのカメラをぶら下げた写真師もいる。まだそう多くはない観光客を相手に商売をしているのだ。湖畔の賑わいは暮れてもなお、笑い声が絶えず、木々の枝に絡ませた電飾が点いたり消えたりしながら、暗い湖面を彩る。対岸に街灯が連なり並んでいることさえ僕には不思議でならない。あのときと同じ街にいる気がどうしてもしないのだ。

1983年、今から18年まえのことになるが、ベトナムの旧正月にハノイを訪れた際、僕は毎日のようにこの湖に来ては同じ光景を眺めていた。そのとき、夕日を映し込んだ湖面が今と変わらずにゆっくりと暮れながら、しかしある時点で急速に闇の底に落ち込んでゆくような、突如として出現する漆黒の暗闇を忘れられない。その湖畔の暗がりに人々は涼を求めて集まり、周囲の小道を散歩していた。水辺のすぐそばの道とその外側の木立の間をぬう道とがあって、自然に皆の足の歩く方向が決まっていた。水辺に近い道が時計回りなら、その外側の道はその反対回りで、そこにいると何となくその流れに乗せられてしまうのだ。

暗がりで夥しい数の人民が歩く足音だけが聞こえていた。ひたひたとサンダルを跳ね上げる音だ。僕は、はじめて社会主義の国をそのとき見たのだった。ベトナム戦争が終わってまだ8年目のことだった。人口が何百万人もいる都市の中心が真っ暗闇の中にある。それが当たり前のようにあるのだ。よく憶えている。対岸の明かりを目で追いながらその数を数えてみた。湖の東側のメーインストリートに面した 電話局の前の交差点に裸電灯がひとつ、その100メートルほど先の、当時は路面電車が走っていたのだが、 その停留所にポッとひとつ灯り、そして高みにある旧市街の入り口の噴水のひときわ高いところにひとつ、60ワットほどの電球が3つだけだった。数えるまでもなかった。今では、街灯が湖の周囲を取り囲み、屋台や店の明かりが何重にも渦巻いて、闇という闇を照らし出している。

あるとき湖に面したビヤバーに入ってビールを飲んでいると、靴磨きの少年が入って来て、靴を磨かないかとせがんだ。靴を見るとそんなに汚れてもいなかったから断ったが、少年は引き下がらなかった。何度も首を振って断る仕草をしてみるが、いっこうに諦めず見苦しささえ感じた。困り果てていると、向かい側の席の初老の男が少年を呼びつけ、一言二言たしなめて、自分の足を差し出したのだった。見ると男が履いていたのは革靴ではなくゴムのサンダルだった。うなだれて顔を伏せたまま、布でそのサンダルを拭く少年の胸ポケットに、小さい紙幣を押し込んでいた。わずか20円ぐらいだ。磨かせてやればよかったと悔いながら 僕はいたたまれなくなって店を出た。

夕暮れの湖畔にはいろいろな人がいる。少女に声をかけられて両替すると何とも不思議な体験をさせられる。僕は何度も騙されたが、なかば面白くて5ドルか10ドルならと損をしても両替をしている。たとえば、公定レートが、1ドルが12,000ドン(ベトナムの通貨単位)なら、少女は13,500ドン位で替えてくれる。1割増しだ。ところが、ベトナムの通貨は単位が大きく、ゼロの数が多く実に紛らわしい。10ドル替えると、120,000ドンにもなり似通った紙幣のゼロの数を間違うとえらく損をすることになる。目の前で1枚1枚、少女といっしょに数えて間違いないはずなのに、改めて自分で数えるとどうしても合わないのだ。

思えば、両替の少女が湖畔に現れるのは決まって夕刻だ。手元が霞むころだ。僕は今、このホアンキエム湖の湖畔に生きる人々とその湖面に映る夜の暗がりについて、小説を書き始めている。
(初出:『文藝春秋』2001年10月号)