Essay

夏が来れば思い出すのははるかな空や野の小道ではなく、水芭蕉でもない。土手の片隅であり畑のはずれの草むらでもある、なんともいいようのない場所に咲いていた 白ゆりの白い花をぼくは思い出す。その白ゆりとおなじ背丈の少年だった。日をいっぱいに浴びたままたたずみ、揺れるその白ゆりが見ていたのは、たしかにそこに在った野の小道だったにちがいない。土手の斜面のうえに青い空も見えていた。なんでだれもいないそんなところで咲いているの、と訊いてみたかった。遠くの河原ではしゃぐこどもの声も 蝉の鳴き声もしない静まりかえった野原に、午後の日が容赦なく降りそそいでいた。

ひとつ凛として立つその花のつけねを指で押したおすと、バネのように揺り戻されて、風さえおきた。肉厚の重たい花びらから、この世のものとは思えない濃密な匂いが、小さな胸をしめつけた。そこかしこに漂いながらどこかへ散ってゆくこともなく、少年のからだに絡まり揺さぶりつづけたのだった。

遠い夏の日、たしかに眼にしたはずの光景が蒸発してしまったかのように夢の彼方に消えても、ただただ白いばかりのゆりの花のあの匂いだけが、いつまでもぼくの記憶に残ってしまった。いや、それは記憶ではなく、この手にこの指にあのときの白ゆりの花粉がいまも残っている気さえする。

夏こそ記憶の季節かもしれない。ぼくにとって夏は匂いを記憶する季節であり、その匂いを思い出す季節でもある。このごろ展覧会の会場などで、春さきや冬でさえ白ゆりの花を見かけることがある。かたい蕾のまま青ざめている。匂いがしないからと、鼻を擦りつけてみるとひんやりした。生きているのか死んでいるのか、匂うと思えばほのかに匂う気がするし、匂わないと思えば蒼い草の匂いだけがして、ほんとうに土を知っているのかと、またいつかみたいに訊きたくなってしまう。

昨年の秋、柿をたべたら大きな種がでてきた。包丁で傷をつけてしまったものをのぞいて、十数個をベランダのプランタンに植えてみた。植えたというより土に突きさしたようなものだった。そのことも忘れていたが、いつの間に芽が出てずらっと並んでいた。行儀よく並んでいるものだから、かわいいくなってだいじに水をあげていたら、いまでは1メートルほどになって、よく見ると茎が木になりかかっていた。ほんとうに木になったらどうしようと思いながら、桃栗三年、柿八年ならば、はやく実がつく桃を買ってきてたべて、種をすぐに土に埋めた。種を植えるのが目的だったから、初物なのになんの味も感じなかったが、桃は、また夏になったことをその匂いでおしえてくれたのだった。

白い花はいつもこちらを見ている。ひとは花を見ているのではなく、花がひとを見ている。見られて恥ずかしいほどだ。

(初出:時事通信社配信)