ガラスの船

Essay

 雨は止むどころか激しさを増して降りつづいていた。

 車内を煌々と照らす先に眼をやれば、雨足の向こうに明かりが滲んでいた。眩いネオンが色とりどりに点いては消え、消えては色を変えて雨の夜を侵していた。前方に3台ほどのワゴン車やトラックが並んでいた。売店に違いない。僕はスピードを落として、ずっと走って来た追い越し車線から走行車線に入り、さらにゆっくりと路肩の砂利道に車を寄せようとしたとき、BMWが割り込んできた。

 フロントガラスを流れる雨水とそれを掻き散らすワイパーの隙間に、ショーウィンドウのような四角いガラスの箱が見えた。水の中にくっきりと浮かんでは滲んでいる。全面に張られたガラスが雨に濡れ、光にまみれて輝いている。まるで水族館の水槽のようだ。

 中に人の気配がする。女だ。ひとりで忙しく動き回っていた。壁にはめ込んだ冷蔵庫からペットボトルと緑色の台湾の缶ビールを取り出し、棚からはタバコかと思われる小箱を手に、先頭の車に駆け寄ってゆく。飾り窓のようなガラスの箱を出入りするたびに、傘を広げたり畳んだりしていた。

 1台が行き2台目が行って、次の次が僕の番だ。近づくにつれ、ますます女の正体がわからなくなる。いったい何の店だろうか?僕は車外に出ることもできず、降りしきる雨の中を泳ぐ熱帯魚のような赤いビキニ姿の女を眺めるばかりだった。輝くガラスの箱は、夜の海に漂うガラスの船のようでもあった。

 女は雨に濡れていた。濡れることに慣れているようでもあった。道の草花や田畑に降る南国の温かい雨が、同じように女の上にも降り注いでいる。まるで雨の中でしか生きられないかのように、女は活き活きと立ち振る舞っているのだった。

 前の車の番がやって来た。次だ。僕は乾いた喉を潤すべきはビールしかないと思っていた。運転があるけど、この雨だし急いでも仕方ないから、缶ビール1本でも飲んで、酔いが醒めるまでこの<輝く船>を眺めながら揺られるのも悪くない。僕は小銭を用意して待っていた。ところが一向に前の車が動こうとしない。女は黄色い傘をさしたまま、車に上半身を潜り込ませて何やら話し込んでいた。10分や20分はかかりそうだ。僕は待つしかないから、シートを少し倒して身体を横たえた。周期的に色を変えながら点滅するネオンの明かりが、強い雨足をもすり抜けて車内の天井にまで忍び寄っていた。

 時折、 僕は身体を起こして、何気なく前の車の様子をうかがったが、動く気配がなかった。後ろを見れば、大型トラックがぴたりと付いていた。仕方なく、また寝そべろうとしたとき、女がどこにもいないのに気づいた。僕はシートを起こして前方に目を凝らした。ボックスにもいないようだ。

 僕は後部座席に手を伸ばして、バッグから望遠レンズを引き出した。そして、カメラでボックスの中やその周辺を注意深く覗いた。物陰に潜む熱帯魚を探すように女を探したが、どこにもいない。ボックスの奥に部屋でもあるのだろうか?僕は何気なく路肩の砂利に目を落とした。花柄の黄色い傘が車のドア付近に倒れて、雨に打たれていた。前の黒いBMWに乗り込んだのに違いない。望遠レンズでスモークのかかったリアガラス越しにピントを合わせて、僕は暗がりの運転席を覗き見た。助手席側に女の姿があった。ボックスの濡れんばかりの光が、BMWのフロントガラスに飛び散っては滲み、あの小柄な女のシルエットが黒く浮かび上がっていた。笑っている。はしゃいでいるのかもしれない。影絵のようにふたりは寄ったり離れたりしながら、戯れていた。僕は1枚シャッターを切った。フロントガラスの硬い光の粒が、暗がりを見つめる僕の目に突き刺さってくる。雨に濡れたその光の粒が、男と女の間をすり抜けて僕の目に届くころ、女は倒れ込んで姿を消していた。すると、引き寄せられるように男の影もシートの陰に隠れてしまうのだった。

 すぐそこの出来事が、レンズを通して見れば遙か遠くのことのように思われた。

 その日は、一日中、台北から車を走らせ、山の畑を巡りながらお茶の取材をしての帰りだった。雨がちらついて来たり、霧に閉ざされた視界が急に晴れたりする山道を、僕は急いで車を走らせて来たのだった。車窓に迫っていた山の鋭利な稜線がいつの間にか遠ざかっていた。行く時と同じ道のはずたが、陽光がギラギラと跳ねる午後とは趣が違っていた。いや、まったく違うルートではないかと自分の目を疑うほどだ。こんなガラスのボックスなど無かったはずだ。それとも、強い日射しに溶け込んで見えなかったのだろうか。

 雨期にはまだ間があるのに、何か変だと思いながら、僕はこの辺りで少し休むか、それともゆっくりでも台北に戻るか、突然の豪雨に打たれてひとり戸惑っていたところに飛び込んできた光だった。

 いつの間にかBMWがいなくなっていた。

 女が近づいて来た。僕は手もとのスイッチで助手席側の窓を開けた。すると、激しい雨が音を伴って、ずっと静かだった車内になだれ込んで来た。

 女は長く待たせたことを詫びるように、身を潜り込ませてきて、車内深くまで伸ばした手で僕の頬を撫でた。慣れた手つきだ。ヒンヤリとした手、そのびしょ濡れの白い手や腕から、名もないような香水の匂いとナマの水の匂いが混ざり合いながら、鼻をかすめていった。僕はむせ返りそうになって息を止めた。すぐそこの女を見るだけで、僕も濡れる気がした。

「まあ、お久しぶりね、今日はどこへ?」たぶんそんなことを言ったのだろう。初対面なのに、きっと誰にでも言うようにそう言うのにちがいない。僕にはわからない抑揚に富んだ台湾語の声が、外の雨音を打ち消すほどに車内に響いた。温かい雨の中にいるから、こうして陽気になれるのかもしれない。雨に濡れた女の温もりが、暗がりを介して伝わってくる。

「ビール!ビア!」そう言って、人差し指を立てた。女は僕の顔を覗き込んできて、唐突に「コンニチワ」と言って、泳ぐように飾り窓の方へと駆け込んで行った。

 雨は止みそうになかった。

 女が戻るまでの間、ガラス窓を閉めていると、嵐の夜なのに不思議なほどの静けさが戻ってくるのだ。僕もこの濡れそぼったままの女も、ふたりして海の底にでもいるような気がした。輝くガラスの船は明るさをさらに増幅させて、僕らのいるこの深い海の底を照らしているのだった。 戻るなり、女はビールを座席に置いて、タバコほどの小箱から木の実らしきモノを一粒摘んで頬張った。そして、数回ほど軽く噛んでからツバを道に吐き出してみせた。慣れたものだ。

「ビンランよ」

身振り手振りで、アクを吐き出してから噛み始めるんだと教えてくれた。女はクチャクチャと音をたてて噛みながら、青々とした一粒を、あ~!と言って開けさせた僕の口に放り込んだ。そして、金を受けとるなり白い歯を見せて、また僕の頬を撫でてネオンの色に染まる雨の中に戻って行った。何歩も歩かないうちに、女は赤い熱帯魚になっていた。

 決してうまいモノではなかったが、僕は言われた通りその<ビンラン>というものをガムのように噛みつづけた。得体の知れない木の実を、暗がりの中で黙々と噛んでいた。そして、唾液が口いっぱいになると飲み込んでまた噛む。味がしなくなるまで噛みつづけるのだ。

 こうした輝くガラスの箱が点々と見え隠れしていた。どの箱にも女が佇んでいる。テレビを見ながら、内職でもしているように細長いカウンターテーブルの上で仕込みをしている。ウズラの卵ほどの大きさのヤシの実のヘタをとり、一筋の刻みを入れてその中に石灰を塗り込む。そして、キンマと呼ばれるコショウ科の植物の葉でくるんで、ひとつ一つを丁寧に小箱に入れてゆく。どのパッケージにも意味ありげなヌード写真がプリントされていて、のけ反っているポーズもあれば、身体をくねらせてじっとこちらを見つめているポーズもある。

 ただひとり、透き通る飾り窓の中で肌をさらけ出し、見ようとすればそれは裸体そのもののようにも見える。それぞれの透明な箱の中で、宙に浮いたように高いイスに腰をかけている。止まり木に止った<カゴの鳥>だ。女たちはネオンに照らされ光にまみれて、そのエネルギーを吸いとってこそ生きて行けるのかもしれない。

 喉もとがわずかに熱くなって、身体が火照ってきた。ビンランの樹液が石灰と反応したのだろう。口からノドへ、そして脳に染み入って全身へと高揚した浮遊感が伝わってゆく気がした。噛んでいると、しばらくして唾液に混じって真っ赤な汁が口の中に溜まってくる。鮮血のようだ。ビンランは、台湾ではもともと先住民の嗜好品だったが、後に移住して来た漢民族にも広って行っていったと言う。

 いつの間にか雨が上がっていた。

 街道筋に立ち並ぶガラスボックスは、更けてゆく夜の中でその輝きを極めていた。電飾が絡まり、誘蛾灯そのものとなって光っている。その灯りに誘われて男たちの車が群がってくるのだ。次々とスピードを落とし、品定めするように女を見ては車列についたり、興味がなければすぐに立ち去ったりしてゆく。

 僕はハザードを点けて、数件先のボックスにも近づいてみた。すでに数台が列をなして、その何人かのドライバーは路肩に出てタバコを吸っていた。人気の店に違いない。しばらく待つことになりそうだ。僕も外に出て、背を伸ばし噛んでいたビンランを吐き捨てた。口の中が麻痺して少し感覚がなくなっていた。辺りに水田が広がり、その水田の中に高床式住宅のような支柱が立っていて、ガラスの小屋は浮いたように乗っていて道の方に突き出ていた。

 僕は車列の前方に向かって歩いた。ビンランを買ってみようかと、ポケットに手を差し込んで小銭を取り出そうとしたら、数枚のコインが路面に散らばってしまった。最前列の車のそばだ。開け放った窓に女が肘をつけて立っているそのそばだった。僕は、ほどけてもいない靴ひもをほどいては結び直していた。女は気配に気づいて振り向いたものの、僕のことなど意にも介さなかった。僕は車内に眼を凝らした。すると、その車の窓から一言二言、声が漏れてきた。

「ねえ、今夜はどこまで行くの?」そう訊いているように思えた。

馴染みなのか親しげに女は、小屋の壁に張りついていた夏の花を一輪摘んで差し出した。昼顔なのかそれとも夕顔なのか、昼も夜もわからなくなったような薄紫色の花が、見ているそこで萎れていくのだった。

「高雄まで行って来るよ」と言ったかどうかわからないが、男は身を乗り出し、開け放したドアから手を伸ばして女を引き入れたのだった。引かれるままに、女はよろけて助手席に倒れ込んだ。

 運転席からは、僕の姿は死角になっていた。ささやく声が、行き交う車の騒音にかき消されながらも、途切れ途切れに僕にはわからない言葉が聞こえてくる。車が、暗がりで小刻みに揺れていた。ガラスボックスが放つ、赤や青のネオンの光が、長い手でも伸ばすようにその揺れる車の窓から運転席の奥の漆黒をかき混ぜていた。女の露出した脚が暗がりに浮かんでは消え、消えては白く浮かぶ。男も手を伸ばし、その細い脚を撫で上げては暗がりをかき混ぜていた。原色の光の粒が熱く男の顔に当っては、跳ね返るように女の汗ばんだ頬をも撫でてキラッと光った。女の足からヒールが脱げ落ちていた。片方は捨てられたように路面に落ち、もう一方はかろうじてドアのステップに引っかかっていた。

「くれぐれも気をつけて・・・」と言ったのだろう、振り切ろうとする女を男は引き止めて放そうとしない。女は、煌々と輝く小屋からの光を背に受けながら振り向いたとき、一方のヒールも地面に転げ落ちた。誰もいないガラスの部屋は眩いばかりで、女はまるで古巣を眺める小鳥ように眺め、その眩しさに目を細めた。壁を伝い、電飾に絡まりながら屋根にまで這い上った花は、色とりどりの人工の光に晒されて、いつ眠るのか、咲ききったまま夜の露に濡れていたのだった。

 その夜の出来事が忘れられない。

 台湾中を走り回りながら、僕は夢と現の狭間を垣間見た気もするし、虚実の<虚>に触れたり、現実そのものを見せつけられた気もしている。

 ミステリアスなこれらのガラスボックスを探し求めて、僕は台中や台南を旅し、南端の高雄へと南下した。その先には南シナ海が広がる。見ようとすれば、その青い海の向こうにフィリピンの島々までもが見える気がした。嵐が来るたびに、その温かい海の向こうからビンランの種が飛んで来て、そのビンランに似た形の島に舞い降りてくるのだ。

 僕は、ぼんやりと海を見つめた。

エメラルド色の浅い海が、沖合のすぐそこで紺碧の海に色を変えていた。見ているだけで、1万メートルの深海へと引きずり込まれそうになってしまう。

 あの嵐の夜に見たのは、この深い海の底だったのかもしれない。

光の粒が飛び散っては輝き、色の波が絡みあっては溶ける、海溝の底・・・

 そこは、人知れず生きる女たちの竜宮だったのだ。

瀬戸正人