binran

 山からの帰り道だった。その日は、一日中、山の畑を巡りながらお茶の取材をしていた。山道を下ってゆく車のシートに沈み込んで、空をぼんやりと眺めていた。霧が出たり急に視界が晴れたりする道を車は急ぐように下っていった。黒々とした山肌に茶の木々が溶け込んで、もう何も見えない。
 ゆく先々でいただいたり買い求めたウーロン茶が気になって、僕は後部座席に手を伸ばした。黄色い筒に赤い色と金で縁取られた文字で<東方美人茶>と書いてある。オリエンタル・ビューティー・・・何ていいネーミングだろう。僕は真空パックの包みを破り開けた。すると、ポンと音がして、車内の暗がりにお茶の香りが吹き上がっては、そこかしこに散らばるのだった。暮れかかる青空は濃度を増していた。僕は、ひとり密かにそのオリエンタルな香りを吸い込んでは吐き、吐いてはそっと吸い込んでいた。乾いて丸まった茶葉をひとつ口に含むと、その苦みと山の奥深い香りが口から鼻へ、そして脳へと染み入るのだった。
 車窓に迫っていた山の鋭利な稜線がいつの間にか遠ざかって、辺りを見渡すと人里に降りて来たのに気づいた。外の熱気と湿気が車内にも流れ込んで来ていて、頬を撫でるエアコンの冷気と混ざり合うのだった。
 雨がちらついて来た。田園のいくつかの集落を過ぎ、遠くの町らしき灯りが眼に入ったころ、路面を流すほどの雨滴がフロントガラスをたたいていた。
「雨期にはまだ間があるのに、変ですね・・・」
 リンさんが胸をハンドルに寄せて、注意深く前方を凝視していた。
「少し休みますか?それとも早めに台北に?」
 そろそろタバコを吸いたいだろうと、リンさんに訊いてみた。
 リンさんは速度を落として、ずっと走って来た追い越し車線から走行車線に入り、さらにゆっくりと路肩の砂利道に車を寄せて、前に3台ほど並んでいる車の後ろに止めた。
 雨は止むどころか激しさを増して降り注いでいた。ふと、リンさんの方に振り向くと、暗がりで影のように運転していたリンさんの顔が、青く、そして赤く明滅する灯りに照らされて、ひとりくっきりと浮かびあがっていたのだった。
「ちょっとお待ち下さい」
 リンさんは車から降りるわけでもなく、何やら待っている感じで言った。僕は、車内の僕らを煌々と照らす先に眼をやった。フロントガラスを流れる雨水とワイパーの隙間に、ガラスのショーウィンドウのような箱が見えた。雨に濡れ、光にまみれるように輝いていた。中に人の気配がする。女だ。ひとりで忙しく動き回っていた。冷蔵庫から、飲み物だろうか、ペットボトルと棚のタバコかと思われる小箱、グリーン色の台湾ビールも手に、先の車に駆け寄る。ガラスの箱を出入りするたびに、傘を広げたり畳んだりしていた。1台が行き2台目が行って、次の次がリンさんの番だ。近づくにつれ、ますます女の正体がわからない。いったい何の店だろうか?車外に出ることもできず、雨足の先の水槽のようなボックスと、その中を熱帯魚のように赤いビキニ姿で泳ぐ女を眺めるばかりだ。夜の海に漂う<輝く船>の甲板にでもいるようだ。女は濡れていた。濡れることに慣れているようだった。道の草花や田畑に降る南国の温かい雨が、同じように女の上にも降り注いでいる。まるで雨の中でしか生きられないかのように、女は活き活きと立ち振る舞っているのだった。
 前の車の番がやって来た。次だ。僕は乾いた喉を潤すべくモノはビールしかないと思っていた。リンさんは運転があるから水かタバコでも買うつもりだろう。ところが一向に前の車が動こうとしない。女が明るい黄色の傘をさしたまま何やら話し込んでいた。それも折り込み済みなのか、リンさんは悠然と地図を眺めていた。僕も意味がわからないながら、待つしかない。シートを少し倒して身体を横たえた。リンさんは我慢できないのか、窓を少し開けてタバコに火をつけた。タバコを止めたのはいつだったのか、思い出せなかったが、箱から2cmほど引き出した1本を勧められて、僕は躊躇もなく引き抜いた。
「リンさん、運転歴は長いんですか?」
「20年くらいです」
「それにしても日本語が上手ですね」
 日本に行ったことがないリンさんの日本語は、少し古めかしくもその落ち着いた話し方には、たぶん誰にも親しみが感じられるだろう。何かにつけ「もちろん!」と言うところが面白く、そろそろ出るかな?と思っているとやっぱり「もちろん!」と頷きながら言うのだった。下から仰ぎ見るリンさんの横顔に油が滲んでいた。40歳にしては艶やかな肌合いだ。その照りのある顔が、ネオンの光に照らされて色とりどりに光っていた。周期的に変わるネオンの明かりに同調しながら、吐き出すタバコの煙もリンさんの身体全体も光っているようだった。
 僕はそっと身体を起こして、何気なく前の車の様子をうかがったが、動く気配がない。仕方なく、また寝そべった。あれ?女がいない。僕はまた身体を起こして前方を見やった。ボックスにもいないようだ。どこへ行ったのだろう?僕は茶畑を撮すのに使った望遠レンズを引き出して、ボックスの中やその周辺を注意深く眺めた。しかし、どこにもいない。ボックスの奥に部屋でもあるのだろうか?何気なく路肩の砂利に目を落とすと、黄色い花柄の傘が車のドア付近に倒れて、雨に晒されていた。車に乗り込んだのだろうか?望遠レンズでリアガラス越しにピントを合わせ、暗がりの運転席を覗き見た。ふたりだ。フロントガラスいっぱいに滲むボックスの濡れた光を背景に、小柄な女のシルエットが黒く浮かび上がっていた。笑っている。はしゃいでいるのかもしれない。ふたりは近づいたり離れたりしながら、戯れていた。リンさんに目を向けても、意にも介さないようすで地図ばかり眺めていた。
 ふと、リンさんが生真面目な声で訊いてきた。
「セトさん!セトさんの事務所は新宿のこの辺りですか?」
 僕は驚いて身を起こした。見ていたのは台北の地図ではなく、東京の地図だった。行ったこともない東京の地図と僕の名刺を付き合わせて、その場所を探していたのだ。
「ここが渋谷ですね?青山通りを通って、ここで左折・・・私、行けそうです」
 僕が笑いを堪えきれずに吹き出すと、リンさんもはにかむように笑い、白い歯を覗かせた。その白い歯も、見ているそばからネオンの色に染まってゆくのだった。

・・・行ったことがなくても、私、ひとりでこうして旅するのが楽しいのです。行ったことがないから、想像するばかりですが、いつでも東京の街を歩いているような気になれるんです。青山通りは広いようですね。皇居も広いけど、歩いて一周できるんでしょ?銀座までも歩けそうだ。私、この地図とお客さんの話からあれこれ想像して、ひとり歩くのが好きなんです。東京へはゆく予定もないんですけど、地名をよく知っていますよ、日本人のお客さんを案内するたびに、こうしてその人の住所を探し当てては、驚かせているんです。毎晩のようにグーグル・アースを眺めては、ひとり、旅をしているんです・・・

 リンさんが手もとのスイッチで、僕のいる助手席側の窓を開けた。女が近づいて来るのを見はからってのことだった。嵐のような激しい雨音が、ずっと静かだった車内になだれ込んで来た。いつの間にか前の車がいなくなっていた。
 女は長く待たせたことを詫びるように、身を潜り込ませてきて、車内深くまで伸ばした手でリンさんの頬を撫でた。慣れた手つきだ。細い腕が僕の顔面を横切ると、びしょ濡れのその白い腕から、名もないような香水の匂いとナマの水の匂いが混ざり合って覆い被さってきた。僕はむせ返りそうになって息を止めた。すぐそこの女を見るだけで、僕も濡れる気がした。
「まあ、お久しぶりね、リンさん、今日はどこへ?」たぶんそんなことを言ったのだろう、抑揚に富んだ台湾語が外の雨音を打ち消すほどに、その声は車内に響き渡った。温かい雨のせいか、女の温もりが伝わってくる。
「ビンラン一つとビール、それにマイルド・セブン」何となくそんな風に聞きとれた。
 リンさんの客は決まって日本人だからか、女は僕の顔を覗き込んできて、「コンニチワ」と言って、ボックスの方へと駆け込んで行った。
 雨は止みそうにない。
 女が戻るまでの間、ガラス窓を閉めていると、嵐の夜なのに、不思議なほどの静けさが感じられた。リンさんも僕も、そしてこの濡れそぼったままの女も、みんな海の底にでもいるようだった。
 輝くガラスの船は明るさをさらに増して、深い海の底を照らしているようだった。
 リンさんは、タバコほどの小箱からビンランを一粒摘んで頬張った。そして、数回ほど軽く噛んでからツバを紙コップに吐き出した。まず、アクを吐き出してから噛み始めると言う。慣れたものだ。クチャクチャと音をたてて噛みながら一粒僕に差し出すと、リンさんは砂利を蹴散らすようにアクセルを踏み込んだ。高速道路のインターチェンジまでの道すがら、輝くガラスの箱が点々と見え隠れしていた。どの箱にも女が佇んでいる。ただひとりの透けた部屋で肌を曝けだし、見ようとすればそれは裸体そのもののようにも見える。それぞれの透明な箱の中で、浮いたように高いイスに腰をかけている。止まり木に止った<カゴの鳥>、女は、光にまみれ、そのエネルギーを吸い取ってこそ生きて行けるのかもしれない。
 僕もガムを噛むようにビンランを噛みつづけた。得体の知れない木の実を、暗がりの中で二人して黙々と噛んでいた。そして、樹液が口いっぱいになると飲み込む。味がしなくなるまで噛みつづけるのだ。すると喉もとがわずかに熱くなってきて、あの女たちのように自分も浮遊している気がして、僕はリンさんに向き返った。リンさんは前方を向いたまま、暗がりで眼だけを輝かせていた。車内のその暗がりにヘッドライトが照らす前方の光の粒が飛び込んで来る。飛び散った水飛沫に視界を遮られても、リンさんはその中を突き抜けて行った。
 身体が火照ってきた。ビンランの樹液が石灰と反応している。口からノドへ、そして脳から全身へと高揚感が伝わってゆく。女の匂いがまだ車内に残っていた。

・・・<ビンラン>と言います。中国語ではそう呼ぶんです。ヤシ科の植物で、ウズラの卵ほどの大きさの種子に刻みを入れて、その中に石灰を塗って、キンマと呼ばれるコショウ科の植物の葉でくるんで一緒に噛むんです。しばらくして唾液に混じって真っ赤な汁が口の中に溜まると、それを吐き出す。鮮血のような唾液だから初めての人は驚くだろうね。南太平洋から東南アジア一帯にあって、台湾では、もともと先住民の嗜好品だったが、後に移住して来た漢民族にも広って行ったようです。
 チューインガムのように噛みつづけると喉もとが熱くなって、軽い興奮と高揚感が得られるんです。青臭くアクも強いから旨いモノではないけど、タバコのように習慣性があって、続ければそれなりに旨いんです。軽い覚醒作用もあって、深夜の長距離トラックやタクシードライバーが好んで噛んでいます・・・

 リンさんの淡々とした声が暗がりに吸い取られてゆく。  気がつけば雨が上がっていた。いや、始めからこの辺りには雨が降っていなかったのだ。路面が乾いたままだ。街道筋に立ち並ぶガラスボックスは、更けてゆく夜の中でその輝きを極めていた。誘蛾灯そのものとなって光っている。その灯りに誘われて車が群がっていた。リンさんはまた車を寄せて並んだ。待ち時間に僕らは外に出て、背を伸ばし噛んでいたビンランを吐き捨てた。口の中が麻痺して少し感覚がなくなっていた。
 僕は車列の前方に向かって歩いた。またビールでも買おうかと、ポケットに手を差し込んで小銭を取り出そうとしたら、2、3枚のコインが路面に散らばって落ちてしまった。最前列の車のそばだ。開け放った窓に女が肘をついて立っているそのそばだった。振り向いたものの、僕のことなど意にも介さない。僕は眼を凝らして暗い中を探した。すると、車の窓から一言二言、声が漏れてきた。
「ねえ、今夜はどこまで行くの?」
 親しげに女は、小屋の壁に張りついていた花を一輪摘んで差し出すと、昼顔なのかそれとも夕顔なのか、昼も夜もわからなくなった薄紫色の花が、見ているそこで萎れていった。
「高雄まで行って来るよ」と、男は身を乗り出し、開け放したドアから手を伸ばして女を引き寄せるのだった。引かれるままに、女はよろけて助手席に倒れ込んだ。
 運転席からは、僕の姿は死角になっていた。ささやく声が、行き交う車の騒音にかき消されながらも、途切れ途切れに、僕にはわからない言葉が聞こえてくる。車が、暗がりで小刻みに揺れている。ガラスボックスが放つ、赤や青のネオンの光が、長い手でも伸ばすようにその揺れる車の窓から運転席の奥の漆黒をかき混ぜていた。女の露出した脚が暗がりに浮かんでは消え、消えては白く浮かぶ。その原色の光の粒が熱く男の顔に当たっては、女の汗ばんだ頬を撫でた。女の足からヒールが転がり落ちていた。右側はざらついた路面に落ち、左側はかろうじてドアのステップに引っかかっていた。
「くれぐれも気をつけて・・・」と言ったのだろう、振り切ろうとする女を男は引き止めて放そうとしない。女は、小屋の煌々とした輝きを背中に受けながら振り向いたとき、一歩のヒールも地面に落ちた。誰もいないガラスの部屋は輝くばかりで、まるで古巣を眺める小鳥ように眺め、その眩しさに女は目を細めた。色とりどりのネオンの光にまみれた花は、いつ眠るのか、咲ききったまま夜の露に濡れていた。