福島 消えゆく土地

 空は青空、静まりかえった地平に風が吹き抜けてゆく。揺らすモノでも探すかのように海からの風が頭上を舞い、吹き下ろしてくる。突き飛ばされ 開け放されたままの窓をすり抜けて、乾きかけたカーテンを揺らしていた。窓という窓には、不思議にもカーテンだけが流されずに揺らめいているのだった。 そこかしこに漂う異臭を潮風がさらって行く。遠くに近くに、ヒバリの声がする。子どものころに河原でよく耳にしたあのか細い鳴き声を思い出すも、辺り にその姿が見あたらない。
 僕は、広大な湖と見まがうような風景の中を走っていた。
 3月11日から10日目のことだ。実家のある福島の中通りの町でガソリンを調達し、すぐに阿武隈山系の峰を超えて相馬の海に向かったの だった。自衛隊員が装甲車の陰の地面に座り込んで昼食をとっていた。僕はその横を通り抜けて、ひび割れたアスファルトの路面を避けて車を止めた。湖の真ん中に立っているかのような場所で、呆然と眺めるほかなかった。 そこは湖ではなく、水没した水田だったのだ。どうすればこんなにも潰されるのか、農機具や車などが散乱し、ほとんどがひっくり返ったまま水に沈んでいた。その水の中を鉄棒を手にした10数名の自衛隊員が一列に並んで、黙々と遺体を捜索していた。
 現場を見に来た老人がひとり立っていた。
 田植えを控えていた自分の水田を見下ろしながら、土地が3mほど陥没し土壌も流されて、舗装されたこの農道だけが土手のように残ったのだという。 「むか~し、う~め立てて作った田んぼだべ~、昔さ帰っただけだ~ぁ」
そう言い残して立ち去ったその人の訛が、いつまでも耳に残る。
 その日、目にしたことは始まりに過ぎなかった。
僕は、津波を止めた国道6号線を北上していた。道の左右にはまったく別の、違った風景が広がる。右手の海側に広がる被災地からの湿った風が車内に吹き込み、頬を撫でては山側の、津波を免れた家々の方へと抜けてゆく。春はすぐそこに来ているのだった。
 相馬→名取→気仙沼→陸前高田→石巻→女川→松島→塩竈→宮古→釜石→大船渡→南三
陸・・・リアス式海岸に沿って北上しては南下し、寝床を求めて内陸の町に立ち寄っては、右往左往しながらいつもガソリンの残量を気にして走った。北上すれば海は右手にあり、南下時には常に大海原は左側の眼下に広がっていた。
 どの町も海に向かって開いた三角の狭い土地だ。
 ここの人はいつも山を背負い海を向いている。
 
 流す涙で割る酒は
 だました男の味がする
 あなたの影を ひきずりながら
 港、宮古、釜石、気仙沼
 
 森進一の「港町ブルース」のこの一節に惹かれて、ひとり撮影旅行をしたのは、もう20年も前のことだ。いつも口ずさみ、時に人目を忍んで海に向かって絶唱したものだ。しかし、どの町のどこを探しても当時の面影はもうない。今、どこにでもあるのは、破壊された生活の残骸が広がるばかりで、海辺から山裾まで泥の色ただ一色だ。
 南三陸町の、流されずに残った防波堤に階段があった。あの泥水が淀んで、見るも恐ろしい光景があるのではと、恐る恐る上がって入り江を覗き込んだ。すると、何もなかったかのように青い海が岸辺を浸し、陥没しかけた岸壁のところどころでカモメが羽を休めていた。入り江の海の水が全部入れ替わったのだろうか。その青さと静けさが不気味だ。
 ここでも風が行く先に迷い、揺らすモノを探していた。揺れてくれそうな公園の木々も軒の洗濯物もあるはずもない。10mはあろう防波堤の高見からは、流されずに残った病院など鉄筋コンクリートの建物の窓がくっきりと見渡せる。そして、どの窓でも洗い立てのようなカーテンが、風に吸い出されてはためいていた。動くものは他になかった。そこだけを見れば、今も人が住んでいる気さえするのだった。
 三角形の土地に水が押し寄せたのは、海の神の怒りではない。悪魔の仕業でもないだろう。深さ2万メートルの海溝で、海の底が数メートル跳ね上がったという。そして同時に数メートルの海の水が盛り上がり、重力に従ってゆっくり沈み込んだに違いない。地球規模のたった数メートルだ。しかし、そうではない。想像を絶するのは、数メートルの水柱の直径が100kmにも及ぶという。そんな量の水が押し寄せて来たことになる。
 海も山も見渡せる防波堤を降りるとき、ふと、言われぬ不安が過った。もしかしたら今、高見から地上に降りているのではなく、僕は海の底に降りているのではないかと思い、足がすくむ。そうだ、ここは海の底だったのだ。人はそれを忘れている。何万年か前、ここは紛れもなく海に沈んでいたはずで、いつかしらそれを忘れてしまったに違いない。
 僕は、町を見下ろす高台にあり、避難所になっている志津川高校からの映像をあらためて見た。
 防波堤の中央付近が突き破られ、水が町に押し寄せて来るようすをみんなで見ている。白くそびえる志津川総合病院が水しぶきに消え、すぐそこで、見慣れた家並みが轟音とともに逆巻く波に押し流されてゆく。「恐ろしい、恐ろしい」と押し殺した声が飛び交う。町より一段高いところを走る鉄道さえ波にのまれ、駅舎が吹き飛ばされて跡形もなく水没していった。
 昔々、そこが海の底だったことを思い知らすかのように、水は町を沈め何もかもを壊しては海に引き込んでいったのだった。