書評:河野多恵子著『小説の秘密をめぐる十二章』

作家が小説という文学作品の成り立ちについて書いている。「小説の秘密をめぐる一二章」という標題にもかかわらず、 ぼくは〈小説〉を〈写真〉に置き換えて読んでしまった。どこを読んでもなんの違和も感じられない。それどころか、 創作の事始めからその方法や構造にいたるすべての章において、〈小説〉あるいは〈文章〉を〈写真〉に置き換えることで、そのまま「写真の秘密をめぐる一二章」になってしまう。

本著の初出が「文学界」での連載で、題名が「現代文学創作心得」であることを考えると小説家志望の若者に向けて書かれたものと思われる。しかし写真との対比を意識したとたん「現代写真創作心得」として写真家志望の若者に写真のリアリティーについて語りかけているように思えるのだ。

たとえばこんなくだりがある。「よい小説の書き方が本当に分かるのは、よい小説が書けた時なのである。よい小説が仕上がってみて、よい小説の書き方が本当に分かるのである」これを写真に当てはめるとこうなる。「よい写真の撮り方が本当に分かるのは、よい写真が仕上がってみて、よい写真の撮り方が本当に分かるのである」そして次のようにつづく、「ところが、次の作品を撮ろうとすると、勿論、よい作品を撮ろうとするわけだが、よい作品の撮り方がまるで分からない。このまえの体験が役に立たない。当てはめようがないのだ。 写真作品の創作とは、そういうものなのである」

このように一二章のどの項目の細部においても〈写真〉に置き換えれば「写真の本」になり、〈画〉や〈音楽〉にすればそれとして読める。 無から有を生み出そうとする創作の現場では ジャンルを越えてそのように通底しているものなのだ。 とは言え小説家が一編の小説を書き上げ、 発表するまでに注がれるその創造の力にはすさまじいもを感じる。 文章の呼吸とは何かを考え、それをどう育てるのか、名前のつけ方や標題のつけ方、どう収束するのか、 数十項目にわたって事細かに書いてある。

第五章の〈才能をめぐって〉では、文芸誌から声がかかった若い作家志望者を想定した、才能が未発達のさまを描いているのだが、本当にありそうな話で吹き出してしまう。速達で届いた封書に「あなたの作品に興味を覚え、短編を百枚書いてみないか」との具体的な誘いで、締め切り日まで書いてある。彼ははじめて注文がきたと有頂天になって前祝いまでした。ところが浮かれる毎日で、「傑作とは?」と考えているうちに締め切りに間に合わず、編集者に冷笑されてしまう。実力も気力もないと判じられてしまう。

もう一つおもしろいのは作中人物の名前のつけ方だ。登場人物の名前など思いつきや気まぐれかと思っていたが、 そうじゃないようだ。 何かの会員名簿で漁ったり、良さそうな名前をノートに控えたりするのはあまり良くないらしい。それより日頃から人名に関心をもつのがいいようだ。デパートとか、胸に名札をつけている人を見かけるとそこに目がいき、銀行で待っている間に窓口の名札を眺めたり、病院の待合い室で呼び上げられる名前を聴いたりするのだという。ありふれた名前や珍しすぎるのもよくないそうだ。そして、字画の多い名前も読者に人物のイメージを押しつけたり、創作の過程で重荷になったりするからダメ。作家自身のことばだから実に真実みに溢れている。すぐそこにいる作家の創作現場を見ているようだ。いや、書いた文章を添削でもしてもらっている気さえしてくる。
(初出:「文春図書館」『週刊文春』)